walls come tumbling down! Pt.1
一方、平間重助が行ってしまうと、中沢琴は助けを呼んでくれた石井秩に歩み寄った。
「ありがとうございます。助かりました」
「い、いえ、お怪我がなくてなによりです」
石井秩も、このときには琴が手にしている刀に気づいていたから、警戒するように娘の雪を抱き寄せ、よそよそしく応えた。
清河八郎は、おびえる雪を安心させるようににっこり微笑みかけ、それから秩に向きなおって、慇懃に頭を下げた。
「どうかお礼をさせて下さい。お名前をうかがえますか」
「わたしはそんなつもりで助けを呼んだんじゃありません。余計なお気遣いは無用ですから、お礼なら先ほどの浪士組の方に差し上げてください」
「まあ、それはそれとして…」
「では、私たちはこれで失礼いたします」
秩は、清河にみなまで言わせず、明らかにこれ以上かかわりたくないという様子で、そそくさと立ち去った。
「ずいぶん嫌われたもんだな。ま、慣れてるけどね」
清河は腕組みをして、自嘲気味に口元を歪める。
琴は、親子の後姿を見送りながら、小さなため息をついた。
「でも彼女、助けてくれた。小さな娘さんまで危ない目に会うかもしれないのに」
「つまり、天はまだわたしに味方してるってことさ」
「よくそれだけ都合のいいように解釈できるわね。確かに長生きできそう」
琴はあきれて宙をにらんだ。
「こないだは、首を洗っとけって言われたぜ?」
「まだ近藤さんたちのところへ乗り込む気は変わらない?」
「ちぇ、今のですっかり気が削がれたよ。そこの水茶屋でお茶でも奢ろう。付き合うだろ?」
二人が腰を落ちつけたのは、壬生寺の裏手にある大和屋という水茶屋だった。
時刻は、昼の九つ正刻(1:00pm)。
「そうだ、これ。返しとく」
琴は思い出したように、清河から借りた刀をぬっと差し出した。
「いいよ。とっときなよ。餞別だ」
「せんべつ?」
「あんたは、もうしばらくこっちへ残れ」
清河の勝手な言い分は今日に始まったことではなかったが、さすがの琴もこれは癇に障って、不機嫌な声で問い返した。
「なにそれ?もう此処での用事は済んだはずでしょ」
「さあ、そいつぁどうだか」
床机に腰掛けた清河は、両ひざに肘をついて、左右の指を組み合わせた。
「帝がいくら攘夷、攘夷と騒いだところで、あの腰抜けの将軍さまが素直に言うことを聞くとは思えねえしな。まだまだこれから京の都では、ひと波乱もふた波乱もあるぜ?このままじゃ舞台が江戸に移るのは、まだ当分先の話さ」
「だからなに?私に残ってどうしろと?」
清河は桜湯(お湯に塩漬けの桜をいれたもの)をすすりながら、なにやら意味ありげに片目をつぶってみせた。
「言ったとおり、当面はこの京が政局の中心だ。あいにく、こっちの仲間は例の寺田屋騒動以来、四散しちまってるし、目端の効く人間が一人、こっちにいてくれりゃあ助かる」
「いい加減にしてよ!用心棒だけじゃ飽きたらず、今度は間者の真似事をさせようっていうの?なんでも言いなりになるなんて思わないで!」
琴がきつい口調でつっぱねると、清河は弁解するように両手でそれを制した。
「おいおい、わたしはあんたの崇拝者なんだぜ?別に何をどうしろなんて指図するつもりはないさ。ただ、寺田屋の一件はまだ終わっちゃいない。計画の火種は何処かで燻ぶってるんだ。そんな面白いものを見すごす手はあるまい?」
「…何を隠してるの?本当は私にやらせたいことがあるんでしょ」
琴は清河の手のひらで泳がされているのを内心歯がゆく思いながらも、興味を抑えきれず、険しい顔で問いただした。
「ふふ、そんな可愛い顔で睨まれたって怖かないね」
「はぐらかさないで」
「わぁかったよ、白状する!寺田屋で発覚した関白・京都所司代襲撃は、計画のほんの一部に過ぎない。ヤツらが画策してた『伏見義挙』の全貌はな、実際にはもっと大規模な挙兵計画だったんだ。当時、攘夷派の急先鋒と目されていた島津久光の上洛に呼応して、主だった過激派の浪士一党が伏見で一斉蜂起する予定だったのさ」
思わず小さく開いた唇を、琴は引き結んだ。
「とんだ夢想家のあつまりね。そんなの幕府軍に踏み込まれたらひとたまりもない」
清河に釣られたせいか、今日の琴はいつになく饒舌だった。
「そうとも言い切れん。かりに薩摩の連中が上手くやってれば、守りのカナメである関白と京都所司代はすでにいないはずだった。混乱に乗じて都を陥落したのち、すみやかに守りを固めることができれば、勝算はあっただろう。なにせ京と江戸は遠い。幕府軍が乗り込んでくるまえに朝廷を取り込んでしまえば、都での足場を固められる。そのために攘夷派の公家衆にバラまく資金もすでに用意されていたんだ」




