翠紅館会議 其之肆
一方、真木の演説は、山場を迎えていた。
「帝におかれては、春日大社、伊勢神宮へと行幸いただき、攘夷を祈願されたのち、そのまま大坂へと軍を進めていただく。軍は、この大阪を拠点とし、
摂海(大阪湾)の軍備を整え、周辺の軍事拠点には関門を設けて、同時に、大砲・軍艦などの兵器製造を推し進めるべし」
「ケッ。あんな寝言、誰が本気にするんじゃ。天地がひっくり返ってもあり得んがな」
政治は門外漢である小鉄ですら、彼の計画を荒唐無稽と感じている。
琴は、それでも一抹の不安を拭い切れなかった。
「彼らは、それをひっくり返そうとしてる」
とは言え、利口な桂小五郎が、こんな大言壮語をそのまま鵜飲みにしているのだろうか。
真木和泉が恍惚と述べた夢想のすべては、希望的観測に基づいており、例えば清河の奸計などに比べればスケールこそ大きいが、およそ実効性に欠けているように思えた。
「どう思う、桂くん?」
真木に意見を求められた桂は、熟考したのち、ごく短い感想を述べた。
「ええ。攘夷に至る道程の大筋に異論はありません」
攘夷親征に前のめりの寺島は、桂の言葉では込み上げる感情を伝えきれていないと、思いの丈を捲し立てた。
「やりましょう!先生!我々長州も、三条卿に掛け合い、先生を学習院の御用掛に推します!ぜひ、この妙策を禁裏でも説いてください。」
しかし、議論好きと言われる肥後人の轟武兵衛が疑義を唱えた。
「聴けば素晴らしい展望だが、実現するには大変な金が要るんじゃないのか?」
「五事策」の弱点を突くこの一言をきっかけに、議論は喧々諤々、紛糾し始めた。
「おいおい、どないすんねん。あいつら、揉め出しよったで?」
愉快そうに琴の肩を小突いたとき、小鉄は視界の隅に近づく人影をとらえた。
「やはり、ネズミだったんだね」
背後の人影は囁くような声で言った。
小鉄は、琴の頭上に振り下ろされた脇差を長ドスで受け止めながら、我が目を疑った。
「お前!?仕留めたはず…」
それは、坂道ですれ違った、あの少年だった。
「仕留めたってこれのこと?」
少年が孔の空いた柳行李を投げつけた。
琴はそれを肘で払い退け、鯉口を切った。
「あのとき、とっさに柳行李で受けたっていうの?」
驚くべき反射神経だ。
それでも小鉄は強がってみせた。
「いかんなあ。どうやら的が小さ過ぎて、狙いを外してしもたらしい」
少年は笑って、脇差をフェンシングのように構えた。
「挑発には乗らないよ」
狭い廻り縁は、斬り合いに不向きな足場だ。
しかも、手摺の外は、ゴツゴツした丘の急斜面である。
少年はその条件を上手く利用して、素早い突きを繰り出した。
小鉄は敵の動きに翻弄され、
「この、小鬼め!」
と、反撃に出ようとしたところへ、
カウンターのような突きを見舞われた。
「うわっと!」
辛うじて避けたものの、手摺側にバランスを崩して、そのまま木立の中へ落ちていく。
丘の斜面に建つ送陽亭は、地面までかなりの高低差があった。
バキバキと木枝の折れる音がして、驚いた鳥たちが一斉に飛び立つ。
「これで、さっきのとおあいこだね」
少年は手摺に体重を預けて、はるか眼下に声を掛けた。
「次はきみだよ」
少年が琴に向き直ったとき、
「誰かそこにいるのか!」
この騒ぎに気付いた寺島三郎が、茶室の障子を開け放った。
一瞬気をとられた琴の足元に、少年の脇差が一閃する。
紙一重で交わすも、着物の裾は切り裂かれ、
白い脚が露わになると、少年はクスリと笑った。
「ほらやっぱり。女だった」
「だから勝山なんて呼んだの?別の誰かは、わたしのこと滝夜叉姫って」
「アハハ、それいいね。お姉さん、強いもの」
吉村寅太郎が、抜き身を構えて廻り縁に飛び出してきた。
「おんしゃ、そこで何をやっちゅう!」
「ちっ」
引き時だ。
琴は舌打ちして手摺を乗り越えると、
遠く嵐山の稜線めがけて飛び降りた。
軽々と着地した琴は、送陽亭の廻り縁を仰ぎ見た。
「逃がさないよ」
少年は躊躇なく琴に続き、刀を構えたまま宙に跳んでいた。
琴はそれを迎え撃つように、木の幹を利用して跳躍し、
頭上から降りかかる兇刃を空中で叩き折った。
堕ちてきた少年は、丘の斜面を一間(約1.8M)ほど転がってから、涼しい顔で立ち上がった。
「すごい…信じられないことをやるね」
折れた脇差を捨てると、長刀に手を掛けて薄く笑う。




