あぐりの桃 其之陸
というわけで、再び近藤の居室。
縁側からカランと下駄を脱ぐ音がして、沖田総司が断りもなく上がり込んできた。
彼は無言のまま、土方歳三の前に立ち尽くすと、なにかを訴えるような目で、鬼灯笛を吹き始めた
「ヴッヴ、ヴヴヴヴッヴーヴヴヴヴヴヴ。ヴヴヴヴヴッヴヴヴ?……はい、今なんて言ったでしょうか?!」
土方は、イライラしながら手にあった団扇を投げつけた。
「うるっせえ!口で言え!」
沖田は勝ち誇るように胸の前で腕を組んだ。
「残念。正解は、『さっき、お琴さんが探してたよ、土方さんのこと』、でした」
「はあ?お琴?んじゃ、ここへ呼んで…」
言いかけて、土方は言葉を切った。
沖田のすぐ後ろ、目の前の庭先から、何か黒い塊が突っ込んでくる。
塊は、沖田を避けるように舵を切ったが、勢い余ってそのまま簀戸にぶち当たり、縁側を背にして座っていた近藤の頭に簀戸ごと圧し掛かった。
「う、うわーっ!」
黒い塊の正体は、八木家の四男、勇之助(7)だった。
「お。近藤先生、ゴメンなさい。なあ、聴いて聴いて!ヴーヴヴヴヴッヴー!な?な?」
鬼灯笛を習得した喜びに、いまだ感極まっているようだ。
「わかった!わかったから、そこをどいてくれ!」
簀戸を押しのけ、ようやく這い出した近藤が顔を上げると、そこにはもう一人の闖入者がしゃがんでいた。
「先生、雪も!スヒー!スヒー!ス、スヒー!プ。プスー…」
なんとか厳めしい顔を繕おうとした近藤も、これには思わず吹き出してしまった。
「…プッ、なんだそりゃ!やめてくれ!アハハハハ!」
雪もその大きな口に釣られて、近藤と目を見合わせて大笑いした。
子供たちのおかげで、ようやく近藤の気分も晴れたらしい。
周囲の出来事に気を取られていた沖田も我に返って、土方の顔を覗き込んだ。
「え?ごめん。さっき、なんか言ってなかった?」
土方は、しかめ面を横に振って、重い腰を上げた。
「もういい。俺が行く。やれやれ、忙しいこった」
土方歳三は、不承不承八木家の離れまでやってきた。
「まったく、総司の連れてきたガキどもがブイブイうるさくてかなわん」
愚痴りながら六畳間に顔を出すと、そこには永倉、原田、斎藤といった試衛館出身の幹部たち数人と、中沢琴が顔をそろえていた。
土方は縁側で桃の皮を剝いている琴の隣に腰を下ろした。
「俺に用事なんだろ?なにか進展でも?」
琴は桃から視線を外さない。
「ただの定時連絡。残念ながら、間者の件はなにも」
「そうか」
あまり期待していなかったものとみえ、土方にはさほど落胆した様子はなかった。
「お、土方さん。いいとこに来たな。これ、あぐりちゃんのお土産」
永倉新八が差し出した最後の一個に、土方は形ばかり感謝する風を見せた。
「ああ。若いのに気が利くもんだ」
琴は、そのやり取りを後目に、手にした小刀で器用に皮を削ぎながら、報告を続けた。
「一応伝えておくと、久留米の真木和泉が、京に戻ったそうよ。それと呼応するように、攘夷激派の動きが慌ただしくなってる。会津が掴んだ情報によれば、近く、彼らは謀議を計るために集まる」
それは土方の頭の中で、琴が長州藩の宴席で桂小五郎から得た情報と、即座に結びついた。
「それって…」
「ええ」
「桂は場所のことを何か言ってなかったか?」
琴は、記憶を手繰るように目を閉じ、人差し指を唇に添えた。
「たしか、東山の…」
「東山?あんなとこ、寺しかないだろ」
土方は、皮ごと桃にかじりついた。
…そう、確か桂小五郎は「翠紅館」と言っていたはずだ。
そこは西本願寺の云わば別邸で、攘夷派贔屓の門主が密談の場として度々彼らに提供していた。
「そうね。その寺院の何処か」
琴は肝心の部分については用心深くぼかした。
「ふん、朝廷とズブズブの生臭坊主を洗い出せば、数は絞れるはず…ん?甘いな…」
土方は、手にした桃を改めてしげしげと眺めた。
永倉が、その腕に取りつく。
「だろ?だろ?コレって、やっぱ、何かの見返りを期待されてるよな?おれは、このあま~い贈り物に込められた想いにどう応えるべきなのか。悩んじゃってるわけよ」
「お梅に鼻の下伸ばしてたと思ったら、次はあの町娘か。気の多いヤツだな」
「あんたが言うな。てか、土方さんなら、可愛い八百屋さんに言い寄られたら、どうする?」
相変わらずの色ボケぶりに、琴は冷ややかな視線を注いだ。
「は?なんでそうなんの?」
あぐりの話になると、すぐ琴の存在を忘れてしまう永倉に苛立っているらしい。
土方は、その様子を面白がるように、
「たしかに、あの娘は最近、急に女っぽくなった。細身だが立ち姿もいい。それに誰かと違って気立ても悪くないしな」
と、あぐりの美点をあげつらって琴を煽った。
「そうよねえ?最近なんかちょっと、オシャレになったよねえ?」
同調する永倉に、琴の眼が吊り上がる。
「バッカじゃない?!だいたい、そういう外面のいい女が、永倉さんみたいのを相手にするって、本気でそう思ってんの?」
突き付けられた小刀を、永倉は仰け反って避けた。
「わ、わー!悪かった!落ち着いて!アッ、アブねえってば!」
「いい?若い女が外見を気にする理由なんて、ひとつしかないから。男よオトコ!決まってるでしょ!」
「いや、だから、おれもオト・・・」
「そうじゃない!気を引きたい鴨はね、見栄えがよくて、金回りもよくて、若い男なの!そうに決まってるの」
琴はかなり偏った独特の恋愛観を振りかざして、永倉の希望を打ち砕いた。
「そ、そうなの?」
流れ弾に当たった永倉は、息も絶え絶えに尋ねた。
「そうよ!それだってどうせ、用済みになれば、すぐ捨てられるんだから。すこしは頭を冷やしなさい!」
「そうだったのか…ちょっと外で風に当たってくる…」
止めを刺され、打ちひしがれて退場する気の毒な背中を見送り、
土方はささやかな悪意を満たしたところで、話を戻した。
「で、会津は会合の日時まで掴んでるのか?」




