あぐりの桃 其之肆
「ふう…」
浪士組局長、近藤勇は、自室の縁側でプカリとキセルを吹かした。
例によって部屋に上がり込んでいた副長土方歳三は、八木源之丞に借り受けた絵入り本を眺めながらゴロゴロしている。
彼は、宙に浮かぶ煙の輪から近藤へと視線を流した。
「なあんだよ?冴えねえ面だな。二日酔い?」
「違えよ。大樹公(徳川家茂)がホントに帰っちまうんだぞ?」
昨日、近藤たちは、同郷の井上松五郎(源三郎の兄)の送別会を開いた。
将軍家茂の江戸帰還が本決まりになって、警護のために上京していた松五郎ら八王子千人同心も京を引き揚げることになったからだ。
セミが鳴いている。
空は抜けるように青く、それが余計に近藤の気分を滅入らせた。
土方は、袂を摘まんでパタパタと扇いだ。
「…しかし、暑いな…。んで、あんたはどうしたいんだよ?」
「どうしたいって何が?」
近藤が不機嫌に問い返す。
「ひょっとして、あんたも江戸が恋しくなったとか?」
「バカ言え。来た時とは事情が違う。大樹公が戻って来ないからって、今さら勝手は出来ん。おまえも言ったろ?容保公の仰せに従うまでさ」
「らしくねえな。浪士組がどうあるべきとか、そんな道理じゃなく、俺が聞きたいのは、近藤勇、あんたがどうしたいのかさ」
「俺は…!」
「おっと待った!また建白書を出すとか、書生じみた悪あがきは勘弁してくれよ?会津さんからのお小言はもう沢山だ」
「しかし、攘夷派の動きもいよいよ活発化して、ここからが正念場だってのに…」
近藤は苛立ち紛れにキセルの先を煙草盆に打ち付けた。
そのとき、襖がスッと開いた。
「ふたりとも、外まで声が漏れてますよ」
入ってきたのは沖田総司である。
「おう、総司」
「これ、あぐりちゃんから」
近藤は、沖田が差し出した笊を覗いて、切れ長の目を小さく見開いた。
「桃か。美味そうだな。井戸で冷やそう」
沖田は、それには応えず、親指で八木家の方を指した。
「筆頭局長がお呼びだってさ」
「…やれやれ。なんだろう?」
近藤が腰を浮かせると、沖田は手のひらを突き出した。
「じゃなくて。土方副長に御用だそうですよ」
土方の口元に微かな笑みが浮かび、そしてムクリと起き上がった。
「そういうことなら、用件とやらは、おおよそ察しがつくぜ?」
梅は部屋に戻ると、床の間を背にして例のごとく酒をあおる芹沢の前に仁王立ちした。
「せんせ、若い果実はお好きどすか?」
芹沢は、梅の吊りあがった目尻を見て、佐伯がしくじったことを悟った。
「いったいなんの話だ?」
空とぼける芹沢の上唇をつねりあげて、梅は手にした桃を優雅に差し出した。
「これや。おぼこ娘に色目使て、えろうお盛んなことどすなあ?」
「ほんなんひゃはい!」
「鼻の下が伸びてる。一軍の将らしゅう、小娘ひとりくらい、自分で口説かはったらどないえ?あんな三下を使て言い寄るやなんて品のないやり口や」
「あかっは、あかっは!」
とそこへ副長土方歳三がやってきた。
この暑さに芹沢の部屋の障子は開け放たれている。
「お呼びですか」
一声かけると、土方は返事も待たずにズカズカ入ってきて、
部屋の隅に座る平間重助、女房気取りで芹沢の傍らにはべる梅に、ジロリと厳しい視線をくれ、けん制した。
「お取込み中でしたか」
「かまわねえよ。まあ、座れや」
芹沢は土方に感謝する日が来るとは夢にも思わなかったと安堵しながら、つとめて鷹揚に正面の座布団を顎で示した。
土方は、指定された場所に胡坐をかくと、にこやかに社交辞令を並べたてた。
「いやぁ、京の夏は暑い。そういえば、先日京相撲の親方から川遊びに招待されましてね。大坂での舟遊びは中途半端に終わったそうじゃないですか。どうです?仕切り直しってことで、水面に映る月を見ながら一杯なんてのは?」
「せんせはお忙しいさかい、手短に」
梅から皮肉の混じった茶々が入った。
芹沢は苦い顔で、また盃を干した。
「大坂の次は京相撲ねえ…。近藤先生は興業の世界で名前を売り出すつもりかい?」
「資金集めの一環ですよ。あくまで合法的な、ね」
もう一切の揶揄や当て擦りに耳を貸すまいと決めた芹沢は、ただ口の端をわずかに吊り上げた。
「…なるほどな。どうだ、お前も一杯?」
「いえ、結構。どうも無駄話で余計なお時間を取らせてしまいました。して、御用向きは?」
「ああ、例の法度の件だが」
芹沢は脇にあった草案を手に取り、剣を突き付けるように差し出した。
「いいぜ、認めてやろう。通りにでもなんでも張り出すがいい」
土方は、仰々しく丸めた法度を受け取りながら、
(もちろん、この内容なら建前上認めぬわけにはゆくまい)
とほくそ笑んでいる。
平間重助は、伏した土方の面に、小さく歪む口元を見逃さなかった。
「まて、せめて新見さんが帰ってくるまで結論は・・・」
軽々しく挑発に乗る愚を諫めようとしたが、芹沢はそれをも遮った。
「だがな。小賢しい法で、俺を御する気でいるなら、そいつは思い違いってやつだぜ?」
土方はわざとらしく目を剥いてみせた。
「まさかそんな!これは無軌道な新入りを律するための…」
「お為ごかしはよせ。あの、阿部って新入りに尋ねてみるがいい。天狗党の頃、俺がどうやって兵卒どもを束ねたかを、な」
すると土方は、開き直るように不敵な笑みを浮かべた。
「おっと…脅かさないで下さいよ。とにかく、法度の件は、近いうち隊士たちにも知らせます。それでは失礼」
言うが早いか、気まぐれな局長が前言を翻す前に、部屋を出て行った。
平間は、半ばヤケクソ気味に、三度、手を打ち鳴らした。
「ふん!実に鮮やかな去り際じゃないか」




