不倶戴天の敵 其之伍
「ほんなら、失礼します」
祐が野口と連れ立って部屋を出てゆくと、近藤は渋い顔で茶をすすった。
「なぁんか勝手が違うなあ」
沖田は小さく首を振り、
「…彼女にとっては、近藤さんも初対面なんですよ…で、」
と、土方を顧みた。
「さっき、二人でなにコソコソ喋ってたんです?」
やはり、さきほどの祐のセリフは聴こえなかったらしい。
土方は、深刻な面持ちで沖田の視線を受け止めた。
「誰か、お祐に間者のことを漏らしたか」
あれはまるで、その正体を知っているかのような口ぶりだった。
沖田は予想していなかった返事に思わずキョトンとした。
「いえ。なんで?」
「いや…まさかな。野口あたりがウッカリ口を滑らせたのを小耳に挟んだだけかも」
佐伯又三郎は、八木家の台所にヒョッコリ顔を出すと、意外そうにまな板の前に立つ琴の背中に声をかけた。
「おっと、楠はん、お早いお帰りで」
琴は首だけを巡らせてジロリと佐伯を睨んだ。
「なにか?」
「いや、八百藤の娘さんを見掛けんかったか?」
「…あなたが八百屋なんかに何の用だ?」
「フン、あんたには関りのないこっちゃ」
それもそうだ、と琴はまな板に向き直った。
「あの子なら、ずいぶん前に帰ったよ」
「ちっ」
遅かったか、
佐伯は舌打ちしたあとで、芹沢から与えられたもうひとつの任務を思い出して、態度を改めた。
「そや。あんたとも色々経緯はあったが、これからは同じ釜の飯を食う仲になったわけやし、どうや?今夜あたり、先斗町で一杯?」
懐に入り込めば監視も容易かろう、という魂胆で、島原では屯所に近すぎて、人目につくという訳だ。
「飯炊きは手伝うが、わたしは独りで食事を摂るのが習慣なんだ。先斗町以外の場所でね。この釜の飯なら、どうぞご自由に」
琴としては、これ以上煩わしい男どもに付きまとわれるのはウンザリだった。
いきなり突き離された佐伯はムッとして、思わず憎まれ口を叩いた。
「ふん。新入りのオカマとは仲良しのくせに、ずいぶんツレないやないけ」
突然、ドンと音がして、佐伯は前のめりに倒れた。
「そのオカマは、いずれあなたの上役になるかもしれないから、口の利き方には気をつけなさい」
佐伯は強かに打った額を抑えながら、憎々しげに振り返った。
そこには、「新入りのオカマ」と揶揄された武田観柳斎が立っていた。
佐伯は、今にも刀を抜きそうな勢いでその顔を睨みつけたが、背後に楠小十郎(琴)が立っていることを思い出すと、何とか怒りを抑え込んで、
「武田、とか言うたなあ?あんた、入隊早々あっちこっちで恨みを買うとるみたいやから、気ぃつけえ」
それだけ捨て台詞を残すと、ドスドス床を踏み鳴らして去っていった。
武田は、その背中を見送ると、何事もなかったように琴に振り向き、
「ねえコレ、みてみて」
と、何かを書き付けた紙をヒラヒラと振ってみせた。
「なに?例の推薦状?」
「そうよ~。やっとよ~。苦労したんだから」
武田によれば、
権中納言徳大寺実則に仕える滋賀右馬允という者に顔をつないでもらって、
京都所司代稲葉正邦の家臣から推挙を取り付けたという。
「貸して」
琴は、その書状を引っ手繰って、目を通したが、
文字を追うごとに、眉間のしわが深くなっていった。
武田の入隊は既定路線で、この書類審査も形式的なものに過ぎなかったから、あれこれ疑いを挟まれる心配はないのかもしれないが、それにしても実に怪しげな点が散見される。
まず、徳大寺実則というのは、強硬な攘夷論者として知られた公卿で、
なぜそんな人物の部下と交際をもったのか。
そもそも、その男が、なぜ敵方である会津(京都守護職)への口利きを了承したのか。
色々と邪推を招きかねない内容である。
それに、淀藩主稲葉正邦は、この同じ月に、前任者が突然投げ出した京都所司代の職を押し付けられたばかりのはずだった。
「これ…」
琴は険しい表情のまま書状を折りたたみ、武田につき返した。
武田は、それをヒョイと取り上げると、人差し指を口の前に立てた。
「なにも聞かないで。知らぬが仏っていうでしょ?これでも使えそうな伝手は全部使ったの」
実際、それらの疑惑はなにひとつ吟味されることなく、予定通り入隊は許可されるだろう。
その淀藩士とやらも、引継ぎ業務のドサクサのうちに推薦状を書かされたのかもしれない。
しかし。
「推薦状を残して、そのうちあなたの命取りにならなきゃいいけど」
「心配性ねえ。少しは喜んでくれると思ってたのに。その辛気臭い顔、どうにかなんないワケ?」
「わたしの顔のこと、どうこう言われたく…」
琴が反論しかけたとき、
この世の終わりのような「顔」をした野口健司が勝手口の前を横切っていって、
少し遅れて、言い争う二人をかき分けるように祐が台所へ入ってきた。
武田は、しばらく野口の背中を目で追ってから、祐に尋ねた。
「彼、なにかあったの?」
「ええ。まあ、ちょっと…」
祐は言葉を濁しながら、襷掛けをはじめた。
「…え?だってあれ、ついさっき浮かれながらあんたの手を引いてった男でしょ?」
どう答えたものかと思案する祐に、琴は「楠小十郎」として助け船を出した。
「おおかた、土方さんあたりに釘を刺されたんだろ?これから隊規を引き締めようってときに、貴女が沖田さんや野口さんと仲良くなりすぎるのは好ましくない。そんなところじゃないのか」
武田はゴシップの匂いに目を輝かせた。
「あら、かわいそ。で?あなたはどっちが好きなの?」
「うちは別に…」
祐はまた口ごもって、乱暴に井戸の釣瓶桶を引っ張り上げた。
琴は、さりげなくそれに手を貸しながら、忠告した。
「きっと土方さんの言葉に他意はない。気にするな」
祐はしばらく琴の顔をじっと見つめてから、
「おおきに。うち、ちょっと外に水を撒いてきます」
と逃げるようにして出て行ってしまった。
武田観柳斎は、祐が離れるのを待って、琴の袖を引っ張った。
「若い彼女にはお気の毒さまね」
「どうかしら。理由は別として、私もそれが彼女のためだと思う」
「あら、ずいぶん訳知り風じゃない?そういえば、あの子、なにか思い出した?」
「…いいえ、なにも。少なくとも本人はそう言ってる」
あの日、“本物の”楠小十郎と祐のあいだで、なにが起きて、なぜ喧嘩に発展したのか。
楠が長州の桂小五郎と繋がっていた事実を考え併せれば、
あるいは、祐は何か知っているかもしれない。
琴にはそういった疑念が拭い切れず、おそらく土方や武田も同じことを考えているはずだった。
「あなた、本当にこの屋敷のどこかに間者がいるって思う?」
「たぶんね」
「ま、だとしたら、いつ布団ごと串刺しにされるか知れたもんじゃなし、おちおちチチクリあってらんないわよね」
琴は刺すような眼で武田を睨んだ。
「ひょっとして、面白がってるの?」
「まさか。誰かが寝首を掻かれたとしても、それがわたしの首じゃなきゃ別段気にしないけど、隊内に長州の間者が紛れてるなんて噂が外に漏れれば、会津は益々私たちに重要な情報を知らせまいとするでしょう?わたしの仕事がやり難くなるのは願い下げよ。けど、もう手遅れかもね」
確かに、と琴は渋い顔をした。
「ダメもとで、黒谷(会津の本陣)の知り合いに鎌をかけてみるね」




