不倶戴天の敵 其之弐
「なあんだよ?」
面倒臭そうに応える芹沢に、佐伯は膝這いでにじり寄ってきて、耳打ちした。
「…例の八百屋の娘、いま勝手の方に来とります」
「ほう…」
芹沢は親指で上唇をなぞりながら、ニヤリと笑った。
「イケズやわあ、佐伯はん。なんや、うちに聞かれとない相談どすか?」
勘のいい梅が、チクリと嫌味を言った。
「いえいえ、仕事の話ですがな」
「ここんとこ、出張やなんやでバタバタしてたから、大事な用件を忘れてたぜ」
芹沢が調子を合わせると、佐伯は例の媚びた口調で、その意を請け負った。
「ほんなら、あの話、そろそろ進めさせていただきます」
一方、行商に来た「八百藤の娘」はというと、
照りつける日差しの中、開け放った勝手口の扉の前で、じっと立ち尽くしていた。
「どないしたん、あぐりちゃん?早よ、お入りやす」
八木家の妻、雅が妙に思って手招きすると、あぐりは人差し指で天を指した
「いえ、勝手口のツバメ、もう巣立ってもうたんやなあ思て」
「ちょっと前まで、そこら辺飛び回ってましたんどすけどなあ」
「…そっかあ」
あぐりは、残念そうに項垂れた。
「そないガッカリせんかて。また、来年も帰って来ますわ」
雅が可笑しそうに彼女の肩を叩くと、
あぐりは、急にパッと表情を明るくした。
「そう言うたら、聞きました。お祐ちゃん!帰ってくるんですね?」
仲の良かったあぐりは、恋人の隊士、佐々木愛次郎から、祐の身に起きた不運な出来事と、その後の経緯を逐一聞かされていた。
「あれ、耳の早いこと。今、野口はんと沖田はんが迎えに行ってますわ」
「よかった!」
「けど、ここのとこ容態は安定したもんの、まだ記憶が戻れへんのどす…」
雅は籠の中の茄子を手に取りながら、物憂げにうつむいた。
場面は変わって、壬生村、浜崎診療所。
野口健司が診療室に駆け込むと、退院の支度を済ませた祐が、しゃんと背筋を伸ばして座っていた。
その側には、医者の浜崎新三郎と助手の石井秩が付き添っている。
「お祐ちゃん、もう動いて大丈夫なの?」
「あ、野口はん。ええ、おおきに。おかげさんで」
祐は、野口の勢いに気圧されて、戸惑いがちに応えた。
「で?なにか思い出した?」
野口の後ろから沖田が声を掛ける。
「それが…」
「わたしのことも分からない?」
「うちのこと、診療所につれて来てくれた沖田はんでしょ?そやけど、ここで目が覚める以前のことは、まだ…」
今のお祐は二人の名を言えるが、それはあくまで意識を取り戻した後の知識に過ぎない。
「それは困ったなあ」
その場に立ち会っていた浜崎新三郎は、徒に不安を煽るまいと、努めてにこやかに助言した。
「ま、こうした場合、徐々に思い出すこともあるから。焦らずにね」
野口が祐の手を取りながら、意気揚々と診療所の門を出ていく。
その後に続く沖田の袖を、秩が引いた。
「なにか?」
少し驚いて振り返った沖田に、秩は、煎じ薬を手渡した。
「これ。お祐ちゃんに、朝晩飲ませるようにって」
「分かりました」
秩は、沖田が薬包を袖に仕舞うのを見ながら、しばらく躊躇したのち、覚悟を決めたように切り出した。
「こんなこと言えた義理ではないんですけど、近頃は、隊士の方も増えられたでしょう?失礼ですが、お祐ちゃんみたいな若い娘さんを置いて、大丈夫でしょうか」
「ああ…」
沖田は少し考えてから、
「いや、ご心配は分かります。お祐ちゃんは、近藤さんや山南さんのいる、前川邸の方で寝泊まりさせるよう手配しますよ」
と頷いて見せた。
「差し出た口を利いて、ごめんなさい。でも、お祐ちゃんのこと、よろしくお願いします」
秩が頭を下げると、沖田はにっこり微笑んだ。
「ありがと」
沖田は、先に行った二人の後を追いながら、真っ青な夏の空を見上げた。
「とは言ったものの…なあ」
土方歳三は、中沢琴を伴って屯所に帰ると、文机に置いてあった紙を引っ掴み、その足で縁側に回った。
芹沢鴨が、相変わらず梅に酌をさせながら、平間重助となにやら話し込んでいる。
「芹沢先生、ちょっといいですか」
土方が、声を掛けると、芹沢は赤ら顔で振り向いた。
「お前が用事なんて珍しいな」
「ほら、大坂行きの前に入った“例の”新しい隊士を紹介しとこうと思ってね」
土方は琴の肩を掴んで、自分の前に押しやった。
ほろ酔いの芹沢は、その顔を見るなり、上機嫌で両手を拡げた。
「よう。急に大坂に出かけることになったんで、ゆっくり挨拶もできなかったが、歓迎するぜ」
「どうも」
琴は例によって不愛想に頭を下げた。
「名前は?」
「楠小十郎だ」
土方が割って入り、本人に代わって答える。
「そうじゃねえ。本当の名前だよ」
凄腕の剣士を、水戸派に迎え入れたい芹沢と、あくまで試衛館一派に抱き込んでおくつもりの土方。
視線が火花を散らす。
「…知る必要が?」
刺すような視線で、土方が返した。
「お花みたいに綺麗なお侍さんどすなあ。沖田はんと比べても見劣りせんわ」
梅が、わざと二人の腰を砕くような感想を述べて、可笑しそうに笑った。
下らない勢力争いに興味のない琴は、淡々とした表情で、“男”として使い慣れた偽名を名乗った。
「中沢九郎。六番組にいた中沢良之助の弟です」
「なるほど…おまえさん、あの生きのいい利根の若造の兄弟か」
芹沢が顎を撫でた。
「ええ。しかし、当分の間、皆の前では楠小十郎と…」
「んなこたあ、分かってるよ。おまえのことは、俺が面倒みてやるから心配すんな」
すると、どこからか阿部十郎がしゃしゃり出てきて、琴の肩を抱き寄せた。
「そうはいかねえぜ。こいつは俺の相棒でな。常にニコイチなんだよ」
琴と、土方は、二人そろって迷惑そうに顔をしかめた。
芹沢も、眉間に寄せた皺を中指で抑える。
「おまえ…誰だっけ?」
「阿部だよ!」
芹沢は、徳利の口を持って、酒の残りを確かめるように振ってみせた。
「ちぇ、冗談だよ。つーか、なんでお前さんがここにいるんだ?」
「だから言ったろ。俺たちは相棒なの!」
阿部はさらにきつく琴を抱き寄せる。
「そうかよ。ま、またよろしく頼むぜ。今度は途中でケツ捲んなよ」




