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幕末カタナ・ガール  作者: 子父澤 緊
黒猫之章
383/404

好奇心は猫を殺す 其之壱

クロは、安住あんじゅうの地を求めて彷徨さまよっていた。


そして壬生村のはしまで歩いてきたとき、クロは立ち止まって考えた。

此処ここから先は、未踏みとう領域りょういきである。

少し不安になったクロは、ここで引き返そうかと逡巡しゅんじゅんするうち、目の前の門からおぼえのあるにおいをぎ取った。

嗅覚(きゅうかく)を頼りに進んでいくと、家の中までそのにおいは続いている。

クロの行き当たった家は、浜崎新三郎の診療所で、そのにおいは八木雅(やぎマサ)の着物についた(ぬか)のものだった。



八木雅(やぎマサ)は、まだ眠っているゆうの横で、医者の浜崎新三郎と話していた。

「あら、クロ。あんた、こんなとこにもお邪魔じゃましてるんか?」

(マサ)が部屋に上がり込んできたクロに声をかけると、

助手の石井秩(いしいいち)が、病人に近づかないよう、そっと抱き上げた。


浜崎は、(ゆう)の腕に巻いた包帯ほうたいを取り換えながら、病状を説明した。

「これをやった男をめたくはないが、実にみごとな斬り口で、その分、治りも早い。たぶん傷跡きずあとは、ほとんど残らんでしょう。ただ問題は、頭の方です。意識が戻ったとき、ちゃんと話すことは出来たんですが…何も覚えてないというんですよ。お寺であった出来事も、それどころか、自分が何処どこだれかさえ」


(マサ)は、くすのき(琴)から聞かされていたものの、やはり動揺どうようした。

「治るんですよね?」

心配そうに、ゆうの寝顔をのぞき込む。


同門どうもんの医者仲間に聞くと、こういった症例しょうれいを知る者も数人いたのですが、彼らが口をそろえて言うには、ただ、養生ようじょうして回復を待つしかないと」

「いずれ、記憶きおくは戻るんどすか?」

「何とも言えません。すぐ戻ることもあれば、一生そのままということも…いずれにせよ、私の手には負えませんな」

「そ、そうどすか…」

項垂うなだれるマサへ、浜崎はさらに重い現実を突きつけた。

「問題は、やまいだけではありません。今のままでは、このの名前しか分からない。沖田さんに聞きましたが、くわしい素性すじょうを知る者が誰もいないとか?」

「…ええ、はあ。生糸商きいとしょう番頭ばんとうはんの娘やとは。それ以上は、あまり話しとないみたいやさかい、えて聞くこともせんかったんどす」

「言いにくいのですが、刀傷かたなきずえれば、いつまでも此処ここに置いておくわけには…」


部屋のすみで、二人のやり取りを聞いていた石井(いち)が、思わず口を出した。

「そんな。原因がはっきりしない以上、しばらくは先生のそばに置いてあげた方がいいかと」

浜崎は、目を閉じると、無念むねんそうに首を横に振った。

「そうしたいが、うちにもあと一人(やしな)っていくだけの余裕はなし、彼女自身、家族の庇護ひごが期待出来なければ、これからは自分で生計せいけいを立てる道を探さねばならん」

「それはそうですけど、先生、お(ゆう)ちゃんは、まだ何も思い出せないんですよ?」

可哀想かわいそうだが、それがいつわりのない我が家の実情だ」

自身も、養女として娘共々(むすめともども)浜崎家の世話になっているいちとしては、そう言われてしまうと一言ひとこともない。


(マサ)は、それを聞いてたまらず助力(じょりょく)を申し出た。

先生せんせ、お(ゆう)ちゃんやったら、実家(おうち)を思い出すまで、うちで引き取りますさかい。今までかて、昼間はずっとうちにったんやし」

浜崎は申し訳なさそうに頭を下げた。

此方こちらとしても出来る限りのことをしたいと考えていますが、そのつもりがおりなら、一度ご主人とも相談していただけますか?」

「分かりました。ほな、お(ゆう)ちゃんのこと、くれぐれもよろしゅう頼みます」

(マサ)(いとま)を告げると、(いち)はそっと子猫をたたみに降ろして、頭をでた。

「クロ、奥様と一緒いっしょにお帰り」



クロは、(マサ)に抱かれて八木家に帰ってくると、今度こそ縁側えんがわを独占しようと庭に回った。


庭では、井戸の脇で中沢琴が洗濯せんたくをしていた。

「いいとこへ来た。手伝って」

クロは意味も分からずキョトンとしたが、それは背後に立っていた阿部十郎に向けられた言葉だった。

「おいおい、武士がお洗濯せんたくかよ…大事な話があるんだが」

阿部はイヤな顔をしたが、琴は有無うむを言わせず、洗濯板せんたくいたとタライを押し付けた。

「私は火の番もしなきゃならないし、明日も晴れる保証はないの。だから、御託ごたくを並べてるひまがあったら、さっさとここへ来て座りなさい。手を動かしながらでも話は出来るでしょ?」

「…へいへい」

阿部は不承不承ふしょうぶしょう灰汁あくをタライにそそぎはじめた。


灰汁あくというのは、当時の洗濯石鹸せんたくせっけん代わりである。

灰汁桶あくおけという容器で、釜戸かまどから出た灰と水をかき混ぜ、不純物を沈殿ちんでんさせた後に、おけ栓口せんくちから上澄うわずみ部分を取り出して作る。


「例の間者かんじゃの件だがよ。今日は他の隊士と連れだって市中見回しちゅうみまわりに出かけたが、特に誰かと接触せっしょくした気配けはいはねえな」

阿部が言ったのは、スパイの容疑者、御倉伊勢武みくらいせたけ荒木田左馬之介あらきださまのすけ松永主計まつながかずえ越後三郎えちごさぶろうらの動向どうこうである。

「ま、奴らも馬鹿バカじゃないから、隊内の信用を得るまでの間、しばらくは大人おとなしくしてるでしょ」

「ただ…あー、畜生ちくしょうくせえな。ダレんだコレ?」

阿部はぎ当てだらけのはかまを拡げると、タライに突っ込んでジャブジャブと洗い始めた。

クロがタライを(のぞ)き込む。

「総司!それ飲んじゃダメ!…ただ、なに?」

「え?そ、総司?」

琴だけは、かたくなに、この被後見猫ゴッドドーターを「総司」と呼び続けている。

クロはめすだったが、つまり、本名は「総司」の方になるのだろうか。

「猫よ」

阿部はしばらく考えて、状況を飲み込んだ。

「…ああ。いや、ほら、考試(こうし)のとき、俺たちの前に並んでた越後えちご三郎って野郎がいたろ?あいつに付きまとわれてる。今もいて来るのに苦労したんだ」

「なんで?」

「さあね。どこを気に入られたんだか『阿部さん、阿部さん』てさ、かわやに行くのも、稽古着けいこぎに着替えるのも、風呂に入るのも一緒って感じなんだ。ただ人懐ひとなつっこいだけかも知れんが、鬱陶うっとうしいったら」

琴は、洗い終わった着物のしわを『パン!』と伸ばして、物干ものほ竿ざおに引っ掛けた。

「目を付けられた事にかんづいて、逆に向こうも、貴方あなたに見張りを付けたのかもよ。そうすれば、他の間者かんじゃは自由に動けるから」

阿部は、あごの先に飛び散った飛沫しぶきを、腕でぬぐった。

「はん、なるほど。かもしれんが、なんかノホホンとした奴でさ。ホントにあいつが間者かんじゃなのか?」

「だとしたら、相当な切れ者ね…ちょっと火をみてくる」

「…いそがしいやつだな」


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