好奇心は猫を殺す 其之壱
クロは、安住の地を求めて彷徨っていた。
そして壬生村の端まで歩いてきたとき、クロは立ち止まって考えた。
此処から先は、未踏の領域である。
少し不安になったクロは、ここで引き返そうかと逡巡するうち、目の前の門から覚えのある匂いを嗅ぎ取った。
嗅覚を頼りに進んでいくと、家の中までその匂いは続いている。
クロの行き当たった家は、浜崎新三郎の診療所で、その匂いは八木雅の着物についた糠のものだった。
八木雅は、まだ眠っている祐の横で、医者の浜崎新三郎と話していた。
「あら、クロ。あんた、こんなとこにもお邪魔してるんか?」
雅が部屋に上がり込んできたクロに声をかけると、
助手の石井秩が、病人に近づかないよう、そっと抱き上げた。
浜崎は、祐の腕に巻いた包帯を取り換えながら、病状を説明した。
「これをやった男を褒めたくはないが、実にみごとな斬り口で、その分、治りも早い。たぶん傷跡は、ほとんど残らんでしょう。ただ問題は、頭の方です。意識が戻ったとき、ちゃんと話すことは出来たんですが…何も覚えてないというんですよ。お寺であった出来事も、それどころか、自分が何処の誰かさえ」
雅は、楠(琴)から聞かされていたものの、やはり動揺した。
「治るんですよね?」
心配そうに、祐の寝顔を覗き込む。
「同門の医者仲間に聞くと、こういった症例を知る者も数人いたのですが、彼らが口を揃えて言うには、ただ、養生して回復を待つしかないと」
「いずれ、記憶は戻るんどすか?」
「何とも言えません。すぐ戻ることもあれば、一生そのままということも…いずれにせよ、私の手には負えませんな」
「そ、そうどすか…」
項垂れる雅へ、浜崎はさらに重い現実を突きつけた。
「問題は、病だけではありません。今のままでは、この娘の名前しか分からない。沖田さんに聞きましたが、詳しい素性を知る者が誰もいないとか?」
「…ええ、はあ。生糸商の番頭はんの娘やとは。それ以上は、あまり話しとないみたいやさかい、敢えて聞くこともせんかったんどす」
「言いにくいのですが、刀傷が癒えれば、いつまでも此処に置いておくわけには…」
部屋の隅で、二人のやり取りを聞いていた石井秩が、思わず口を出した。
「そんな。原因がはっきりしない以上、しばらくは先生の傍に置いてあげた方がいいかと」
浜崎は、目を閉じると、無念そうに首を横に振った。
「そうしたいが、うちにもあと一人養っていくだけの余裕はなし、彼女自身、家族の庇護が期待出来なければ、これからは自分で生計を立てる道を探さねばならん」
「それはそうですけど、先生、お祐ちゃんは、まだ何も思い出せないんですよ?」
「可哀想だが、それが偽りのない我が家の実情だ」
自身も、養女として娘共々浜崎家の世話になっている秩としては、そう言われてしまうと一言もない。
雅は、それを聞いて堪らず助力を申し出た。
「先生、お祐ちゃんやったら、実家を思い出すまで、うちで引き取りますさかい。今までかて、昼間はずっとうちに居ったんやし」
浜崎は申し訳なさそうに頭を下げた。
「此方としても出来る限りのことをしたいと考えていますが、そのつもりがお有りなら、一度ご主人とも相談していただけますか?」
「分かりました。ほな、お祐ちゃんのこと、くれぐれも宜しゅう頼みます」
雅が暇を告げると、秩はそっと子猫を畳に降ろして、頭を撫でた。
「クロ、奥様と一緒にお帰り」
クロは、雅に抱かれて八木家に帰ってくると、今度こそ縁側を独占しようと庭に回った。
庭では、井戸の脇で中沢琴が洗濯をしていた。
「いいとこへ来た。手伝って」
クロは意味も分からずキョトンとしたが、それは背後に立っていた阿部十郎に向けられた言葉だった。
「おいおい、武士がお洗濯かよ…大事な話があるんだが」
阿部は嫌な顔をしたが、琴は有無を言わせず、洗濯板とタライを押し付けた。
「私は火の番もしなきゃならないし、明日も晴れる保証はないの。だから、御託を並べてる暇があったら、さっさとここへ来て座りなさい。手を動かしながらでも話は出来るでしょ?」
「…へいへい」
阿部は不承不承、灰汁をタライに注ぎはじめた。
灰汁というのは、当時の洗濯石鹸代わりである。
灰汁桶という容器で、釜戸から出た灰と水をかき混ぜ、不純物を沈殿させた後に、桶の栓口から上澄み部分を取り出して作る。
「例の間者の件だがよ。今日は他の隊士と連れだって市中見回りに出かけたが、特に誰かと接触した気配はねえな」
阿部が言ったのは、スパイの容疑者、御倉伊勢武・荒木田左馬之介・松永主計・越後三郎らの動向である。
「ま、奴らも馬鹿じゃないから、隊内の信用を得るまでの間、しばらくは大人しくしてるでしょ」
「ただ…あー、畜生、臭えな。誰んだコレ?」
阿部は継ぎ当てだらけの袴を拡げると、タライに突っ込んでジャブジャブと洗い始めた。
クロがタライを覗き込む。
「総司!それ飲んじゃダメ!…ただ、なに?」
「え?そ、総司?」
琴だけは、頑なに、この被後見猫を「総司」と呼び続けている。
クロは雌だったが、つまり、本名は「総司」の方になるのだろうか。
「猫よ」
阿部はしばらく考えて、状況を飲み込んだ。
「…ああ。いや、ほら、考試のとき、俺たちの前に並んでた越後三郎って野郎がいたろ?あいつに付きまとわれてる。今も巻いて来るのに苦労したんだ」
「なんで?」
「さあね。どこを気に入られたんだか『阿部さん、阿部さん』てさ、厠に行くのも、稽古着に着替えるのも、風呂に入るのも一緒って感じなんだ。ただ人懐っこいだけかも知れんが、鬱陶しいったら」
琴は、洗い終わった着物の皺を『パン!』と伸ばして、物干し竿に引っ掛けた。
「目を付けられた事に勘づいて、逆に向こうも、貴方に見張りを付けたのかもよ。そうすれば、他の間者は自由に動けるから」
阿部は、顎の先に飛び散った飛沫を、腕で拭った。
「はん、なるほど。かもしれんが、なんかノホホンとした奴でさ。ホントにあいつが間者なのか?」
「だとしたら、相当な切れ者ね…ちょっと火をみてくる」
「…忙しい奴だな」




