留守中の出来事 其之壱
さて、浪士組三度目の下坂については、前項で簡単にその顛末を述べたので、ここでは彼らの留守中に屯所で起きた出来事について、子猫のクロの眼を借りて語りたいと思う。
クロは、すっかりこの八木邸と壬生村での生活に馴染んでいた。
なにせ、主だった幹部は、将軍のお供で皆いなくなったため、その間、八木家は至極平和であった。
局長代理の谷右京老人は、終日家主の八木源之丞、年配の隊士馬詰信十郎と縁側で茶飲み話などして時間を潰しているし、まさに猫好みの状況である。
なので、実質的なトップは新入りの武田観柳斎ということになるが、彼もまた、日中は周旋活動で不在のことが多く、そもそもまだ正式な隊士とさえ呼べない立場だったので、クロの見るところ、屯所内の規律は、ずいぶんと締まりのない状態だった。
その朝。
庭先には、いつもの騒がしい若者たちの姿もなく、源之丞の息子の秀二郎が、ただひとり師匠斎藤一の言いつけを守って、千本の素振りをやっている。
「しかし、ご子息は日に日に逞しくなっておられますなあ」
谷右京老人が、母屋の縁側で茶をすすりながら、その様子を褒めると、
「なんの、まだまだどす」
源之丞は、まんざらでもない様子で頭を掻いた。
クロは、機嫌のよさそうな源之丞の膝に乗って、ひと眠りすることにした。
「お宅の、あー、ほら、柳太郎くんの様子はどうです?」
谷老人が、もうひとりの茶飲み友達に話を振ると、初老の新入隊士、馬詰信十郎は、気まずそうに言葉を濁した。
「いやあ、倅は…」
信十郎の「倅」に話が及んだ途端、源之丞も表情を曇らせた。
村では、彼が南部家の子守に手を出したなどという噂が以前から囁かれていたからだ。
「あれだけの美男だと、若い女子も放っておかんでしょうからねえ。いや、稽古に身を入れようにも、まず誘惑を断ち切るのが大変なんだなあ。私にもね、若い頃、覚えがありますよ」
谷老人は、悪気なく繊細な話題に触れてしまった。
源之丞と信十郎は、それぞれ思うところあって、複雑な愛想笑いを浮かべるしかなかったが、谷はそれに気を良くして、さらに続けた。
「まあまあ、彼もね、いずれモノになるでしょう、うん。例えばね、近ごろ入った楠くんや馬越くんなんて子たちはね、柳太郎くん同様の美童だが、あれでなかなかの腕前ですからな」
「そのような方もおられますか?」
信十郎が、なにやら興味深げに尋ねると、
「おられますよー。おられますとも。うふふふ」
谷は楽観的に笑った。
「ほな、ちょっと青蓮院まで出かけますよって」
居心地の悪くなった源之丞が席を立った拍子に、クロは膝から転げ落ちた。
朝寝のあてが外れたクロが、仕方なく板張りの床で涼をとろうと表玄関までやってくると、
「ねえ、小十郎」
その馬越三郎という隊士が、楠小十郎こと中沢琴に声を掛けていた。
馬越は、ほぼ同期ということもあって、琴にずいぶん気易い口を利く。
彼はまだ、年の頃十六くらいの少年で、おそらく琴を同年代の若者だと思っている節もあった。
「きみは、幹部の人たちと親しそうだけど、どういう関係なの?」
「どうって、別に」
琴は素っ気なく応えた。
「ふうん。けど、こないだ山南副長と一緒に歩いてるのを見かけたよ」
馬越は、上目遣いに琴の顔を覗き込んだ。
彼は、いわゆる美少年で、佐々木愛次郎や山野八十八、馬詰柳太郎らと並んで、後世“隊中美男五人衆”などと括られている。
因みに、あとの一人が、楠小十郎である。
「で、なにが言いたいんだ」
「私はね、隊の中では年少だけど、けっこう腕の立つ方だと自負してるんだ。だからさ、山南さんと懇意にしてるなら、私に機会を与えてほしいって口添えしてくれないかな?」
「機会って?」
「例えばだけど、不逞浪士の住処に斬り込むとかさあ。きっかけさえあれば、私も腕を認めてもらえると思うんだ」
「立身出世に熱心なのは結構だが、売り込みなら自分でやってくれ」
馬越は、子供のように頬を膨らませて、愛くるしい眼を見開いた。
「だって、不公平じゃない。怒らないでほしいんだけど、君みたいに縁故で採用された人は、すぐにでも幹部待遇だろ?我々は何か手柄を立てなきゃ目にも留めてもらえない」
どうやら彼は、“楠小十郎”にライバル心を燃やしているらしい。
琴は、なんだかその熱量にウンザリして、適当な嘘をついた。
「山南副長とは、そんなんじゃない。考試のあった日、この家の通い女中が暴漢に襲われて、私はその場に居合わせたから、事情を聴かれただけだよ」
「でも…それで名前を憶えてもらえたんでしょ。そんなのズルいよ。柳太郎だってさ…」
琴が険しい顔で振り返った。
「柳太郎?誰?」
「あ、いや。知らないならいいけど…」
しつこく食い下がる馬越に、琴は冷ややかな視線をくれて、
「もういい?今日は、厨(台所)で手伝いがあるんだ。その女中さんが休んでるからね。それと、私は出世に興味ないから、どうぞ気兼ねなく宣伝活動に励んでくれ」
そういうと、馬越の追跡を振り切るため、足早にその場を離れようとしたが、勢い余ってクロの尻尾を踏みつけた。
「ぎにゃ!」
「あ、ごめん。総司(←ネコ)」




