鴨を撃つ 其之参
「え?俺?」
阿部が自分を指すと、武田は当然のようにうなずいた。
「そ。あたしがちゃんと指示を出すから、適当なお公家さんの推薦状を手に入れるまで、二人でなんとか持ち堪えなさい」
近藤は、まるでお伺いをたてるように琴の顔を伺った。
「いいかな?」
琴は口を真一文字に結んで、ため息をついてから、無理やり口角を上げて見せた。
それから、近藤だけに聞こえるように、耳元に唇を寄せた。
「いいわ。協力するから、近藤さんは大坂から帰ってくるまでに、気難しい副長を説得してね?あの二人に、私は味方だって分からせて」
「はは、心得た。よし、じゃあみんな、仕事にかかれ!」
散会となって、皆が部屋を出ていく中、土方が、琴を呼び止めた。
「楠、ちょっといいか」
部屋には、土方と山南だけがまだ残っている。
琴が黙って座ると、土方が尋ねた。
「おまえ、輪違屋の方はどうする気だ?」
「それは、あなた方の心配することじゃない。上手くやる」
「じゃあ君は、今日から隊士として、ここで寝泊まりする気か?」
山南が詰問口調で訊くと、
琴は瞳をクルリと回して肩をすくめ、好戦的な調子で答えた。
「そうね。枕が変わると眠れないから、あっちから持ってくる」
土方は下らないケンカにウンザリして、二人を止めた。
「もういい。分かった。おまえ、夜は監察の仕事で屯所に帰れないことにしといてやるから、輪違屋で寝ろ」
「なんで、そんな面倒なことをするわけ?」
琴がむくれながら尋ねると、
「なんでって、おまえ…!」
ムサ苦しい男ばかりが雑魚寝する六畳間で一緒に寝る気か、と言いかけて土方は思い止まった。
「人間てな、寝てる時が一番無防備なんだ。隣で鼾をかいてるのが間者かもしれないと思ったら、いくらお前でも落ち着かねえだろうが?」
たしかに、それが現実的な妥協案かもしれない。
島原と壬生が近いことが幸いしたといえる。
「それもそうね、分かった。つまり私は、夜は島原の明里天神、昼間は浪士組の楠小十郎として生活するってこと?確かに、自分なのか自信がなくなってきた」
琴は山南に当てつけるように嫌味を言った。
日も暮れて。
隊士たちは、まだバタバタと出立の準備に追われている。
琴は「今日はもうやることもない」と、八木家の門を出て、ぶらぶら島原の方角へ歩き出した。
「送るよ」
声がして、顔を上げると、前川邸の門の前に山南敬介が立っている。
琴は、立ち止まって少し微笑むと、何も言わずにまた歩き出した。
山南も無言で、肩を並べる。
二人は黙ったまま、島原大門に着いた。
いくら近いとはいえ、なんだかあっという間だと琴は思った。
「今日は飲んでいくよ」
門の脇にある柳の下で、山南がポツリと言った。
「今からみんなでお城に詰めるんじゃなかった?」
「大坂へ立つのは朝だ。それまでに間に合えばいいさ」
「らしくない」
「ふん」
山南は、ただ軽く笑い飛ばした。
「まさか、こないだ言ったこと、気にしてる?」
「ああ。君を独り占めにする時間も欲しい」
「あきれた。わざわざお金を払って自分の女を口説くなんて聞いたことない」
「お互い、しばらくは忙しくなりそうだからな。逢引きに金が掛かるのは、なにも花街に限ったことじゃないだろ?」
「けど、ごめんなさい。私いま、お座敷を干されてる」
琴は、申し訳なさそうに打ち明けた。
「まったく。私はいつも間が悪いな」
山南がうつむき加減に笑うと、琴は、空に浮かぶ半分に欠けた月を指差した。
「ほら見て。月夜の遊郭を散歩するのも悪くない、でしょ?」
「ああ、いいね」
着流し姿の琴は、少し身震いして自分の肩を抱くと、
「少し寒いわ」
そう言って、山南の着ていた羽織を剥ぎ取り、自分の肩にかけた。
「気が利かなくてすまないな」
山南が苦笑しながら詫びると、
「きっとあなた、花屋町通りを行き交う人から、女たらしの鼻持ちならない男だって見られてる」
琴は悪戯っぽく笑った。
さて。
その翌日の、文久三年六月九日。
独断で兵を率い上京した老中小笠原長行を処分するため大坂へ向かったはずの将軍徳川家茂だったが、
その四日後には、京都守護職松平容保に「後のことは任す」と置手紙を残して、朝廷に暇も告げず、そのまま江戸へ帰ってしまった。
急転直下の出来事である。
「長州の外国船砲撃により、横浜における諸外国との緊張が高まっている」
というのが、表向きの理由であったが、この一連の出来事は、家茂を江戸へ連れ帰るため、最初から周到にお膳立てされていたようにも見える。
結果として、何も知らされず京に残された松平容保だけが、割を食った形になった。
もちろん、その末端にいる近藤たち浪士組には、上層部の真意など知る術もない。
こうして、壬生浪士組、孤立無援の戦いが始まった。




