龍尾剣 其之弐
試合は中断したまま、下らない諍いが延々と続く。
「ゴホン!」
後れてやって来た山南敬介が、不機嫌も露わに咳払いをして、二人のケンカを止め、前置きもなく、琴に作戦の進捗を伝えた。
「芹沢さんたちは、楠が長州の間者だとすでに知っているから、君が死体の身代わりを務める件は、私から説明してある」
「じゃあ、お琴さんは出戻りの隊士扱いってこと?」
沖田が尋ねると、山南は頭を振った。
「いや、この事は、我々上京組だけの秘密だ。だから、佐伯さんにも知らせるつもりはない」
上京組とは、鵜殿鳩翁率いる浪士組本隊から分派した、試衛館の八人と芹沢鴨ら水戸一派を指す。
彼らは全員、江戸から京に向かう途上で、当時は浪士組の一員だった男装の琴と顔を合わせており、彼女(彼)が復隊するにあたって、長州の間者を装う旨の因果を含めることになっていた。
「残念ですね。他の隊士たちに先輩風を吹かせられなくて」
沖田は面白がって同情する風をみせたが、琴は鬱陶しそうに手を払った。
「別に構わない。この考試に受かれば問題ないんでしょ?」
山南は、内に秘めていた憤懣が抑えきれなくなった様子で、琴に詰め寄った。
「まったく…勝手なことをしてくれたな、お琴さん。いや、なんと呼べばいい?楠小十郎?芸妓の明里?それとも他の誰かか?」
「やめて!好きでやってるんじゃない。知ってるでしょ?」
琴の抗弁を、山南は撥ねつけた。
「いいや、分からんね。なぜ君が、こんな茶番を演じなきゃならんのか」
「おおい!次、なにモタモタしてる!?楠小十郎、早く前へ!」
しびれを切らした原田左之助が騒ぎ出して、二人の言い争いは中断された。
「とにかく、行ってくる。話はあとで」
琴は山南に背を向けた。
「楠小十郎?」
まだ事情を聞かされていない永倉新八は、琴が耳慣れない名前で呼ばれたことに解せない顔をして、土方に肩を寄せた。
「何やら事情があるらしいが、本気でやっちゃっていいのか?」
小声で確認すると、土方は永倉の肩に肘を載せて、含みのある笑みを見せた。
「あの女にいいとこ見せたいんだろ?手を抜く理由が?」
わざわざ煽るようなことを言ったのは、琴が不甲斐ない負け方をすれば、妥当な理由で入隊を却下できるからだ。
察しのいい永倉は、ため息を漏らした。
「…やれやれ、土方さんにも、なんか魂胆があるみてえだな。ほんじゃま、好きにやらせてもらうぜ?」
「副長が二人とも非協力的じゃ、先が思いやられる」
琴は、相手の出方を伺うため、オーソドックスに、平正眼の構えをとった。
「はじめ!」
原田の掛け声で、
琴に向き合った途端、永倉は真顔になった。
「こいつは…鼻の下を伸ばしてたら、一発でやられそうだな」
しかし…
「こうやって、真正面から向き合うと、男の格好してても、やーっぱり可愛…」
次第に頬が緩んできたところへ、
琴の突きが飛んできた。
「うわっとと!」
慌ててそれを払うと、
「いけねえ、いけねえ。つ~い見とれちまったぜ、子猫ちゃん」
改めて気を引き締める。
琴は小首をかしげて、妖しく微笑みかけた。
「ふん、ほんの挨拶代わりってワケかい。しかし、これほどとはな」
一方の琴も、行きがかり上とはいえ、永倉新八と剣を交えることに興奮を覚えていた。
自分の勘が正しければ、彼はこれまで会った剣士の中でも屈指の実力者だ。
「休ませる気はない」
琴は、上段、中段、下段を織り交ぜ、
目にも止まらぬ速さで連続攻撃を繰り出した。
志願者たちは、口を開けて二人の攻防を眺めていた。
「は、早ええ!」
「しかし、アレを全部かわす方もすごい」
琴の攻撃が一区切りついたところで、
永倉はピョンと後ろに飛びのいて、琴と距離を取った。
「ふう、疲れた。ちょっと休ませてくれよ…」
琴はまたニヤリと笑った。
「まだまだ、こんなもんじゃないでしょ?」
永倉は肩で息をしながら顔を歪めた。
「生き生きしちゃってまあ…ご期待に沿いたいとこだが、あいにく手持ちの技はそう多くなくてね。だけど、ほんじゃまあ、おれもなけなしの切り札ってやつをご披露しますか」
永倉は、剣先ををだらりと下げ、半身を開いた。
一見、面から胸へかけて、隙だらけに見える。
見慣れない構えに、琴は警戒した。
永倉は、その姿勢のまま、ジワジワとにじり寄ってくる。
あの肩口へ、上段から撃ちかかっていいものか。
琴は、迷い、一定の距離を保った。
ジリジリと照りつける太陽の下、
先ほどとは一転して、
試合は膠着状態に陥った。
「来ねえのかい?これじゃ考試にならねえぜ?」
今度は永倉がニタリと笑う。
この男の「切り札」が何であれ、
自分のスピードなら、それが届く前に、
勝負を決められるかもしれない。
「くっ」
琴は一か八かの賭けに出て、
八相の構えから、面を打ち込んだ。
琴の足が間合いに踏み込んだ刹那、
だらりと下がった竹刀の背が、
琴の剣先を下から上へ
猛然とすり上げて跳ね返した。
と同時に、
その剣が、稲妻のような大上段となって、
頭上から、琴に目がけて落ちてくる。
ガチリ!
琴はかろうじてその一撃を受け止めていた。
しかし。
永倉の竹刀は、すでに琴の額にわずか触れていた。
琴の力負けだった。
二人の剣捌きは早すぎて、常人には目で追うことも難しい。
「…永倉の奴、いま、何をやったんだ?」
土方が二人を凝視したまま、近藤に尋ねた。
「…上段からの攻撃を誘い、攻防一体になった縦の一撃を返す、即ち、尾を打てば頭来たり、頭を打てば尾来たる、人呼んで、竜尾の剣だ…」
近藤は、拳を握りしめながら応えた。
琴は、竜の如き大上段の勢いに飲み込まれ、敗れたのだ。
しかし永倉は、最も得意とする剣法を受け止めた琴の反射神経に驚愕していた。
その表情は、とても勝者のそれには見えない。
勝負が決まったと思ったあの一瞬、永倉には、琴の瞳が紫色に光ったように見えた。
「…さっすが、やるねえ。文句なしで合格だ」
「でも、負けました」
琴は頭を下げた。
これが真剣で、同じように打ち込んでいたら自分は死んでいた。
背中には滝のように冷や汗が流れている。
永倉は、さきほど自分が見たものの正体を、まだ考えていた。
「しかし、真剣でも同じようにいくとは限らねえ。あんたは本番に強そうだしな」
「ちっ」
土方歳三が舌打ちする。
確かに、負けはしたが、これでは口を差しはさむ余地はない。
額に汗を浮かべる琴に、阿部が手拭を投げつけた。
「お前だけ受かってどうすんだよ!」
「ごめん」
と、そこへ。
「おうおう、いたいた。近藤先生、近藤先生」
局長代理の谷右京老人がのっそりと現れて、
「たった今、屯所に会津からの遣いが来てね、急報が入ったよ」
と告げた。
「谷先生、どうしました?」
「それがねえ、大樹公が小笠原様にお沙汰を言い渡すため、明日にもまた、大坂へ向かうことになったんだってさ。浪士組も警護のため帯同する様にとのお達しだよ。めんどくさいよねえ」
もちろん、考試は中断。
「皆に準備させます」
近藤は、川島勝司に言いつけ、急いで幹部を招集させた。




