虎切 其之肆
診療所の土間には、湯を沸かす鉄瓶の音だけが、チン…チン…と寂しげに響いている。
「あの女の人、前にも見たことある」
琴がポツリと言った。
沖田はしばらく考えて、石井秩のことを言っているのだと気づいた。
「ああ、例の人斬り以蔵が屯所で暴れたとき?」
「そのまえにも。綺麗なひとね」
「そうかな…」
沖田がはぐらかすと、琴は悪戯っぽい眼で顔を覗き込んだ。
「…あの人のこと、好きなんでしょ?」
琴は、沖田の恋心を見抜いていた。
「やめてくださいよ。お雪ちゃんがいるんだから」
なぜ今、そんな話をするのか、沖田には分からなかったが、
少しでも気を紛らせようという、琴なりの気遣いだった。
「でも、此処で働いてるってことは、後家さん(未亡人)なんじゃないの?」
「さあ、どうでしょう。聞いたことないから」
沖田はあくまでしらばっくれた。
琴は俯いて、ふと笑うと、沖田に向き直った。
「あのね、私、思うんだけど…」
言いかけたとき、その秩が部屋から出てきた。
「お祐ちゃん、目を覚ましましたよ」
沖田はさっと立ち上がって、尋ねた。
「それで?」
「心配ないそうです。刀傷はごく浅くて、少し傷跡は残るけど、命に関わるようなことはないと。ただ、頭をかなり強く打ってるみたいで…まだ意識がはっきりしないみたいです」
「会えますか?」
「いま、先生が傷口の消毒をしてますから、晒を巻き終わるまで、もう少し待ってください。けど、まだ話すことは出来ないかも」
「かまいません」
沖田が心底ほっとした表情を見せたので、秩は、少し複雑な微笑を浮かべた。
「あの…何があったんでしょう?」
隊士たちの怪我の原因には立ち入らない秩も、今回は聞かずにいられなかった。
何しろ、傷を負ったのは若い娘である。
「詳しくは話せませんが、やったのは長州の侍です」
たしか、秩の亡夫も長州人のはずだ。
幼稚な嫉妬心が、沖田に意地悪な返事をさせた。
秩は小さく眼を見開き、沖田のことをしばらく見つめた後、
「…バカみたい」
小さな声で呟いた。
「え?」
沖田は驚いて聞き返した。
「日本人同士で、勝手にそうやって敵味方を作って、しかも殺しあうなんて。どうかしてる」
「…ご主人が亡くなった原因も、それですか?」
沖田は思い切って聞いた。
「…」
秩は目に一杯の涙を溜めながら、唇を引き結んだ。
沖田は急に罪悪感に捕らわれて、言い訳した。
「すみません。だって、なんだか、侍ぜんぶを憎んでるみたいだから。ひょっとして、ご主人の事と何か関係があるんじゃないかと」
「だとしても、沖田さんには関係ありません」
秩はまた心を閉ざし、沖田を拒絶した。
その日、真夜九つ(11:00pm)を過ぎても、祐の意識は戻らなかった。
「気がつくまで、こちらでお預かりしますから、今日のところはお引き取り下さい」
浜崎新三郎が二人に告げた。
意気消沈した沖田が頭を下げると、浜崎はその肩をポンと叩き、
「なに、大丈夫。数日もすれば元気になりますよ」
と慰めた。
二人が辞去の挨拶を述べて門を出ると、雪が沖田に駆け寄ってきて腕をつかんだ。
「こら、まだ起きてたのか?」
沖田が軽く叱ると、雪はその手に何かを握らせた。
「沖田はん、ええもんあげるな?」
沖田は掌の中のものを見つめた。
「これは?」
「お守り。診療室に落ちててん」
それは、角の生えた馬の根付だった。
「ふうん、ありがと。早く寝ないとダメだぞ」
「うん。沖田はん、あのな」
「うん?」
「堪忍え?お母はんと、ケンカせんといてな?」
雪はそれが言いたくて、遅くまで起きていたのだった。
沖田はしゃがんで、雪を抱きしめた。
「わかった。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
雪は、玄関まで駆け戻り、それからもう一度振り向いて手を振った。
「なに?」
琴は沖田の手を覗き込んだ。
「根付。先生のかもしれないから、明日お祐ちゃんの様子を見がてら、返しに来ますよ」
「可愛いことするね、あの子」
もし見えていたら、自分が仏生寺弥助に渡したユニコーンの根付だと気づいていたはずだが、辺りは暗闇で形までは判別できなかった。
「あんな小さな子に、余計な気を使わせちゃった」
「ほんと、バカね。無神経なこと聞いて」
沖田はムッとして、言い返した。
「あの人は武士って階級そのものに嫌悪感を持ってるんです。話していても、ずっとそこに見えない壁があって、なんだかスッキリしないんですよ」
沖田は、今日起きた色々なことで落ち込んでいたから、思わず胸の内を吐き出してしまった。
これではもう、二人の関係を白状しているようなものだ。
「ふうん」
琴はニヤニヤしながら頷いた。
口を滑らせたことに気づいて、沖田は照れ隠しに話題を変えた。
「わたしのことより、お琴さんはどうなんですか?」
「私がなに?」
「そろそろ江戸へ帰って、向こうで山南さんが帰ってくるのを待てばどうです?」
「私が、山南さんを?」
「山南さんは、甲斐性がないから、妻はもらえないなんて言ってたけど、こっちでそれなりの手柄をあげれば、会津藩に残れるかもしれない。それなら問題はないでしょう?江戸詰めになるのか、会津に行くのかは分からないけど、ついてけばいい」
「どうかしらね。近藤さんにも似たようなこと言われたけど、そもそもあなたたちは、肝心の山南さんの気持ちをないがしろにしてる」
とはいえ、思い返してみれば、琴自身、結婚について、今まで真剣に考えたことはなかった。
「てことは、お琴さんにはその気があるんでしょう?」
そう聞かれて、琴は言い淀んだ。
「わたしは…」
「山南さんの気持ちなんか聞くまでもない。見てれば分かりますよ…イヤなんですか?」
「私みたいに背の高い女は、男に嫌がられるの」
すっかり沖田に差し込まれた琴は、冗談に紛らせて自分の問題から逃げた。
「どうかな?今度、山南さんに聞いといてあげますよ」
「余計なことしないで。黙っててくれたら、あなたのこと、生かしといてあげるから」




