虎切 其之弐
「子供たちを、遠ざけておいて下さい」
沖田はゾロゾロと付いてきた子供たちを琴に任せると、阿部とともに鐘楼の裏へ回り込んだ。
黄実千両の低木の向こうに、若い浪士が立っているのが見えた。
しかし、祐の姿がない。
「そこで何をやっている!」
沖田が叫ぶと、浪士は沖田の方を見て、妖しく嗤った。
その面は、まるで若い女のように見える。
「あんた、浪士組か?」
気味の悪いくらい、落ち着いた声だった。
「おまえこそ、何者だ」
沖田は駆け寄って、ギョッとした。
浪士の右手には、抜身の刀が握られている。
反射的に浪士の足元へ視線を移すと、
そこには肩をはだけ、額から血を流した祐が倒れていた。
「山城国浪士、楠、楠小十郎だ」
沖田は激昂して刀を抜いた。
「貴様、彼女に何をやった!」
しかし、刀を構える暇もないほど、
楠は素早く間合いを詰めてきた。
その刃が、下から摺り上げるように沖田を襲う。
沖田は驚異的な反応速度で、その刀を上から抑え込み、
力づくで振り払った。
「…ほう、やるな」
楠がまた不敵な笑みを浮かべた。
「なぜ名乗ったと思う?これを見られた以上、お前たちには死んでもらう他ないからだ」
阿部は、二人のやり取りに気を取られていたが、
我に返って、自らも刀を抜いた。
「おしゃべりは終わりだ」
沖田は静かに正眼の構えに入った。
対する楠は、八相に構える。
そのニヤリと歪んだ口元には、何か絶対的な自信を裏打ちするものが垣間見えた。
「沖田さん、気をつけろ!こいつ、何か奥の手を隠してるぞ!」
阿部が叫んだ。
しかし、沖田の眼は、ただ深く、静謐な光を湛えている。
刹那、
鋭い踏み込みとともに、楠が右薙ぎを放った。
普通であれば、必殺の一撃と言っていい速さだ。
しかし。
沖田は、軽いバックステップで、それを紙一重交わし、
同時に、電光石火の速さで、
一足一刀の間合いに入った。
沖田が勝った。
瞬間、阿部はそう思った。
だが、沖田が踏み込んだその時。
楠は、掌で刀を返していた。
刃は背を向き、
振りぬいた位置から、
今度は真逆の軌道で、左に薙ぎ払う。
これこそ、楠の切り札、
古流、中条流の秘技、
虎切剣だった。
一説には、佐々木小次郎の“燕返し”の原型になったと言われる技である。
そして、
阿部の叫び声を聞いた中沢琴が駆け付けた時、
勝負は決していた。
楠は切れ長の眼を見開き、中空を見つめていた。
確かに捕らえたはずの沖田の姿は、
そこになかった。
そして、さらに信じがたいことに、
自らの身体が、三度も刺し貫かれたことに、
ようやく気付いた。
虎切、
すなわち、連続する左右の水平切りの、そのわずかな隙に、
沖田は、三段突きを放ち、さらに楠の射程距離外へ出るという離れ技をやってのけたのだ。
その間、ほんの2秒にも満たない出来事である。
「ウソだろ…」
これまで、この技で数々の敵を葬って来たのだ。
楠小十郎は、現実を受け入れられないまま、前のめりに倒れた。
阿部は、祐に駆け寄り、
琴は、血を流し斃れたその浪士を、茫然と見下ろしていた。
「…楠、小十郎?」
その呟きを聞いて、沖田が顔をあげた。
「知ってるんですか?」
「長州の桂小五郎は、浪士組に間者として潜入させるために、京育ちのこの男を選んだ」
沖田は、今まさに命の炎が尽きようとする楠小十郎の傍らにしゃがみ込んだ。
「なるほど。すると、当然、間者はあんた一人ってわけじゃないだろ?仲間は?」
楠は、朦朧としながらも、沖田を睨みつけ、つばを吐いてみせた。
「強情な奴だ」
「…面白いこと…を教えてやる」
楠は今にも絶えようとする息の下からうそぶいた。
「仏生寺と…いう男が…たびたび芹…沢鴨に接触している筈だ…奴がもし…裏切るつも…りなら消せ…と言われた」
なぜこの男は、今、仏生寺弥助の話などするのか。
琴はその意味を考えた。
彼はいま、下関のはずだ。
「さて…奴は、どっちにつくかな…?」
楠はそう言って、こと切れた。
口元には、勝ち誇ったような笑みを残したまま。




