夕涼み 其之参
「で、この方は、筆頭局長の芹沢鴨先生だ」
平間が開き直って芹沢の名を出すと、付き人の一人が鼻で笑った。
「知らんな。こちらは小野川部屋、中頭の熊川関や」
その熊川は、不敵な笑みを浮かべたまま、恫喝などモノともせず、そそり立っている。
彼らの親方にあたる小野川秀五郎は、熱心な勤皇派として知られ、士分を見下しているところがあったというから、弟子たちも、その影響を受けているのだろう。
しかも、熊川の番付は中頭筆頭、現代の大相撲でいう十両筆頭にあたる。
と言えば、中途半端な格付けだと思われるかもしれないが、さにあらず、
この頃の大坂相撲の置かれた状況は、現在の日本プロ野球界にも似て、実力者はすぐ大名に召し抱えられ、江戸相撲に移籍してしまうという傾向にあった。
そんなわけで、大坂には幕内より上位の関取は居らず、つまり、熊川関は、実質的に大坂相撲の最高位にあったのだ。
芹沢鴨は小首を傾げ、首筋を掻きむしった。
「まったく…あのなあ、雇い主に言っときな。尾行させんなら、今度からもう少し図体の小さい奴に頼みなってよお」
しかし、熊川は無言のまま、威圧的な態度で見下ろすばかりである。
大柄な芹沢にとっては、滅多にある構図ではない。
その青白い顔に、うっすらと朱が差した。
「ふん、それはまあいいや。あんたもお役目なんだろうからな。だが…」
そこまで言って、芹沢は抜き打ちに斬りつけた。
「うおっ!」
胸から腰にかけて、浴衣が切り裂かれ、血飛沫が飛び散った。
熊川は叫び声をあげて、前のめりに倒れる。
芹沢は、片方の眉を吊りあげて笑った。
「なあ、お相撲さんよ。俺もガキじゃねえから、何時もなら、こんな事でいちいち腹を立てたりしねえんだ。ただなんつーか、そのタプタプの二重顎が目の前にあるのだけは、どうにも我慢ならねえな」
「おいおい、芹沢の奴、やっちまいやがったぞ」
すっかり酔いのさめた原田左之助が、永倉新八の肩を揺すった。
永倉も呆気に取られている。
「冗談だろ…」
斎藤一は、相手の反撃に備えて柄に手を掛けたが、付き人たちは恐れをなして逃げ去っていった。
平間重助が途方に暮れて、横たわる巨体を見下ろした。
「なんてことを…」
新見と言い、芹沢と言い、考えなしに人を斬りすぎる。
芹沢は、刀を鞘に納めると、フンと鼻を鳴らして、熊川の身体を軽く蹴飛ばした。
「バーカ。ちょいと切り傷をつけてやっただけだよ、殺しちゃいねえ。また相撲だって取れらあ!」
よく見ると、たしかにまだ息をしている。
「あのなあ、これは、そういう問題じゃ…」
つい先日も、新見と同じような問答をしたばかりだとウンザリしながら、平間は抗議したが、芹沢はその先を言わせなかった。
「出かけるまえに、近藤の奴がなんか言ってたろ?内山とかいう与力に気をつけろってよ」
「それがどうした?」
「こいつらあ、奉行所の犬だよ。なあ、山南さん?」
少し解説すると、
この時代にはまだ、現在の日本相撲協会にあたるような全国の大相撲を統括する組織は存在せず、江戸相撲、大坂相撲、京都相撲などは、それぞれが独立した格闘技団体だった。
便宜上、格闘技と表現したが、「勧進相撲」は厳密には神事であり、建前は寺社への寄付を募るチャリティーショーである。
そして、ここが重要なのだが、江戸相撲の興行が寺社奉行の管轄であったのに対し、大阪は町奉行所の管轄下にあった。
つまり、大坂相撲の力士たちにとって、西町奉行所与力内山彦次郎は、実質的な雇い主にあたるわけだ。
折りしも、大坂には老中小笠原長行が乗り込んできており、そこへ悪名高い浪士組が下阪したと知って、余計な騒動を嫌った内山彦次郎は、力士たちに命じて彼らを監視させていたのである。
実は、山南敬介もそれに気づいていたが、芹沢の暴力的な対処は予想外だった。
「…それを分かっていて手を出したんですか?」
鋭い眼で筆頭局長を睨みつけ、怒りを露わにする。
芹沢は気にする風もなく、曽根崎川を眺めてうそぶいた。
「見ろよ、山南先生。川面に三日月が映ってるぜ…風流だねえ。こんな夜に、目障りな奴らにウロチョロされたんじゃ、せっかくの気分が台無しだ。そう思わないか?」
しかし、京ほど血生臭い事件に慣れていない大坂の人々は、たちまち大騒ぎになった。
「ひ、人が斬られた!」
堂島新地は、いわば中州にある小さな村だ。
叫び声を聞きつけた野次馬が、あっという間に集まってしまった。
遊里に遊ぶ客だけでなく、芸妓や茶屋の中居、幇間まで。
「…まずいな」
山南敬介が、平間重助に耳打ちした。
「早くここを離れた方がいい」
平間も周囲を見渡して、うなずいた。
その、集まってきた人々の中に、料亭紀伊国屋の中居、小寅の姿が混じっていた。
中沢琴の友人で、西郷吉之助の愛人、別名、豚姫である。
小寅は、人の群れをかき分け、熊川に駆け寄ると、野次馬を振り返った。
「あんたら!なにボーッと見てんねん!早よお医者に連れて行かな!」
目の前にいた二人の町人の手を引っ張ると、通りの袖看板を指さして、
「そこの大喜楼へ行って、戸板借りて来ぃ!」
と命じた。
「え?え?」
「ええから、早よ!」
小寅は、なぜ指名されたのか訳が分らずうろたえる野次馬の背中を突き飛ばした。




