再び、大坂へ 其之参
「なあ、こういう話がある。
昔、伝馬町の牢屋敷につまらん罪で捕まった厩番が送られてきた。
厩番は、マジメにお勤めを果たしたが、何かと小才が効くその男を、牢奉行がえらい気に入って、放免後に自分の屋敷で雇うことにしたんや。
ところがのう、その男、馬の世話をさせれば天下一品で、牢奉行の馬は病気や怪我をまったくしなくなり、みるみる毛艶もピカピカになった。
ある時、長崎で通詞をやっとる知人が、牢奉行を訪ねてきて、
『あなたの厩番はまるで馬の気持ちがわかるようだ』
と感心すると、
『奴は馬の目を見れば、何が云いたいか分かるんだそうな』
と牢奉行は応えた。
どうしてもその厩番を国許に連れて帰りとなった知人は、高い金を払ってその男を貰い請けた」
柴田が我慢できずに口を出した。
「ちょっと待ってくれ、兄貴。そりゃ何かの例え話かもしれんが、話しがトントン拍子すぎへんか?だいたい、馬の眼を見て何考えとるか分かるなんて、そんなことがある訳ないがな」
高沢は弟分を憐れむように肩を叩いた。
「目は口ほどに物を言うって言うやろ。その道に通じとる者なら、相手が馬でも理屈は同じなんやと俺は見るね」
しかし後ろで聞いていた阿部も、疑問を差し挟んだ。
「てか、引っかかるのはさ、何で牢奉行が宮司を家に招く?どうしてそんな親密なんだよ」
「宮司やない。通詞や。要するに出島におるオランダ人と長崎の役人の折衝を仲介する地役人で、奴らの間に入って通訳をする役回りや」
「だったら、もっと納得いかねえな。何で長崎の通詞と伝馬町の牢奉行が友達なんだよ」
「知らんけど、親戚かなんかやろ。そんなことはこの話の主旨とは関係あらへん」
「その主旨は、要するにどうやって女をコマすかってとこだよな?だとしたら、全然話が見えねえが」
確かに、彼らの会話はどんどん取り止めのない方向に脱線して先行きが怪しいので、ひとまず近藤勇に話を戻す。
近藤は男たちを指さし、佐々木蔵之介を振り返った。
「おいおい、淀川まで戻ってきちまったぞ」
厳密に言うと、それは支流の土佐堀川で、三人は、例の家里次郎が切腹した会所のある常安橋の手前を左に曲がって行く。
一つ下流にある越中橋も通り過ぎ、さらに西へ向かうようだ。
近藤は米俵を積んだ船が橋の下を通って行くのを見るうち、急に不愉快な現実を思い出し、また怒りが込み上げてきた。
「しかし、この国の海防はいったいどうなってる。お上の許しなしに乗り付けた軍艦に、こうも簡単に上陸を許すなど、ザルにもほどがある」
と、こちらも話が横道に逸れ始めた。
「まあ、分からなくもないさ。相手が老中って遠慮もあって、止め切れなかったんだろう」
井上が、世間のしがらみを説くと、佐々木蔵之助も、ちょうど越中橋のたもとに建つ薩摩蔵屋敷を見上げてため息をついた。
「しかし、あれじゃあ薩摩が抜け荷でボロ儲けしとるっちゅう噂もうなずけますね。あっちじゃ清からの船がバンバン入港しとるって言いますから」
「薩摩はともかく、ここは天領(幕府の直轄地)だぞ?奉行所は何をやってるんだ」
近藤が義憤に駆られて声を荒げると、蔵之助は秘密を打ち明けるように声音を落とした。
「奉行の内山って男は、御家人ですが、何かと黒い噂の耐えない人物でね。あのズル賢い男が、うかつに老中に手を出すような真似をするとは思えませんね」
「適当にやり過ごす気か。明石屋万吉の言ってた例の与力だな」
「あの男が米や油を買い占めて大坂の相場を影で動かしてるなんて言う者もありますから」
井上は、なにやら身につまされた様子で相槌を打った。
「うん、うん。まったく世知辛い世の中だねえ。米の値段はここ数年で倍以上になった。正直言うと、浪士組も武具どころか、全員を食わして行くのがやっとさ」
「つまり、俺たちが貧乏なのは、そいつのせいか?」
近藤は、また怒り出した。
「おいおい、そう短絡的になりなさんな」
井上がなだめたものの、近藤の気持ちは収まらない。
「しかし、本当だとすれば許せん」
と、その時、
「おい」
井上が、何かに気づいて近藤の肩を揺さぶった。
しかし、近藤と佐々木はすっかり政治談義に夢中になっていた。
「近藤先生。壁に耳あり、口は災いの元ですよ」
「どういう意味だ」
「だって、コメの値段が上がって得をするのは、誰やと思います?」
それは、米の石高で給料をもらうサムライたちだ。
つまり、内山は現政府の中枢部ともズブズブの関係である可能性も否定できない。
これは以前、中沢琴が小寅から聞かされた話と同じである。
「おいってば!」
井上はさらに声を張り上げたが、
近藤としては、ここで蔵之介の理屈に言い負かされる訳にはいかなかった。
「バカな。確かに、官吏がヤクザに頼るようになっちゃ世も末だが、城に詰めてる連中がそこまで腐っているなど、俺は信じん」
「いやあ…」
佐々木蔵之介は、意味深な笑みを浮かべた。
「なんだよ?」
「世の常として、政ちゅうのは裏の世界と繋がっとるもんです。そんなん、局長かて会津を見てたら分かるでしょ」
佐々木蔵之助は、侠客会津小鉄の存在を仄めかした。
「なんのことだ?」
「えっ?ほんまにご存じないんですか?」
蔵之助の口振りでは、それも一部では知られた話らしい。
しかし、とうとう井上が爆発して、二人の議論は中断した。
「いいから、聞くんだ!あの三人組がいない!」
「ええっ!?」
近藤と蔵之助は、同時に叫んで、井上の顔を見た。
「いないって…え?どこ行った?」
二人は慌てて辺りを見回したが、怪しい男たちは忽然と姿を消していた。
「だから、見失ったんだよ!」
それも無理はなかった。
なにしろ、彼らが蔵屋敷の鍵まで準備していたことを、近藤たちは知らない。
目を離したわずかな隙に、阿部たちは勝手口から悠々と屋敷の中に潜り込んでいたのだ。




