花街の諜報戦 其之参
善助は琴を帳場の隅に引っ張ってくると、声を潜めて尋ねた。
「本来、こんなことに口を挟むのは剣呑どすけどな。西郷様のお取り成しでこの店に入ったあんたが、壬生浪の御仁に身請けされるだけでも角が立つ言うのに、このうえ、長州なんかに深入りして大丈夫なんか?」
善助は、琴が浪士組の用件で度々外出していることを知っていたから、桜木の客、つまり攘夷派と不用意に近づくのは、危険であると警告したのだ。
他の芸妓に聴かれるのを嫌ったのは、
例え同じ置屋にあっても、公武合体派、尊王攘夷派、両陣営の贔屓が入り混じっているためである。
夜の島原では、常に複雑な情報合戦が繰り広げられている。
実際、琴よりもずっと危ない橋を渡っている遊女も珍しくはなかった。
「気にかけて頂いてありがとうございます。今のところ、会津と薩摩は公武一和で歩調を合わせていますから、ご心配されているような凶事は起きないと思います。今日のお座敷は…ほら、ただのお手伝い?桜木姐さんを立てて、それ以上深入りするつもりはありません」
琴はにっこり微笑んで見せて、その場をやり過ごした。
しかし、機微に聡い善助の目は、簡単に誤魔化せなかった。
彼は、琴の様子を見ただけで、何か裏があるのを感じ取っていた。
「老婆心ながら言わせてもらうと、政には関わらんことどす。政局言うもんは、何時、どう転ぶや分かれへん。厄介ごとに巻き込まれんためには、余計なものは見聞きせん、知ろうとせんことが肝要どすえ」
それが置屋の主人として遊郭に生きてきた男が、琴にしてやれる最良の忠告であり、唯一の処世術だった。
「ええ、肝に銘じておきます。でも、だからこそ、旦那様は、詳しい事情をお聞きにならない方がいいわ」
「そないなもん、知りとうもないわ」
「じゃあ、行ってまいります」
支度を済ませた琴が、玄関を出ていこうとすると、善助が帳場から姿を現し、険しい顔でうなずいて見せた。
その眼が「先ほどの忠告の意味を、本当に理解したのか」と念を押している。
本来、善助にとっては、お節介を焼くメリットなど何もないはずで、つまり、根は善良な人物なのだ。
物言いは素っ気ないが、彼なりに琴の身を案じているらしい。
その日、琴たちは井筒屋という揚屋のお座敷に上がった。
同じ輪違屋からは、桜木太夫と嬉野天神、
その他にも、桔梗屋という置屋から、高砂太夫と吉栄天神という芸妓が呼ばれている。
障子が開いて、宴席を見渡した途端、琴は小さく目を見開いた。
以前、高瀬川の小橋で剣を交えた長州藩士、山縣小輔と杉山松助がいたからだ。
もっとも二人の方は、あの時の着流しの浪人と、美しく着飾った芸妓が同一人物などとは全く気付いていない。
そして、さらにもう一人、見知った顔を見つけた。
北新地の料亭、紀伊国屋の店先で見かけた二人組の一方、寺島忠三郎である。
しかし、お目当てのもう一方、桂小五郎の姿が見えない。
客は他に三人、だが、どれも違う。
嬉野天神が、琴の袖を引いて耳打ちした。
「見とおみ、あのお侍さん、まるで女形みたいに綺麗やわ」
嬉野は、見覚えのない三人のうちの一人、若い男の方に目配せした。
女形という表現がぴったりの美青年、いや、まだ美少年と言ってもいいくらいの年頃だ。
「よし、綺麗どころも揃ったことだし、始めるか」
一番年長で物静かな中村道太郎という男が号令をかけると、男たちはいっせいに騒ぎ始めた。
「ほれ、桜木、酌じゃ、酌をせい」
「吉栄、嬉野」
どうやら、琴以外はみな顔なじみらしい。
京の揚屋は「一見さんお断り」が通例で、それは別にめずらしい事ではなかった。
「若いお侍様ばっかりや。みんなあんたを見てはる」
桜木が優しく琴の背中を押した。
確かに、琴は背が高いのもあって目を引いたし、「明里」と言えば「その美貌は伝説の吉野太夫もかくやあらん」などと少々大袈裟な前評判も長州藩士たちの耳に届いていて、まるで見世物のような好奇の目に晒された。
琴は挨拶を兼ねて、一通り酌をして回った。
杉山松助は、いたく琴が気に入った様子で、いいところを見せようと、難しい顔で人生観を語り始めた。
「なあ、天神。俺は、京に出てきたときから、大儀のために死ぬ覚悟はできてる。こうやって、飲んで騒ぐのも、明日の夜には生きてる保証がないからだ。でもな、それでもいいと思ってる。俺を踏み台にして、桂先生や、高杉や、久坂たちが…」
初会にしては話の内容が重すぎるうえ、
なかなか放してくれそうになかった。
すると、琴を挟んで反対側に座っていた松井龍二郎という男が、
「ずいぶんお堅い話をしてるなあ、杉山さん。ホレ、明里天神の盃が干上がっとるじゃないか」
と、笑って琴の盃を満たしながら、言い寄ってきた。
「無理して飲まなくてもいいぞ?あんた、天神なのに、変に世間ズレしとらんところがわしの好みだ。初会ってことは、ここにいるみんな、まだ横並びって訳だろ?なら、次はきっと、わしが明里を呼んでやる。のう?しかし、京女というのは、本当に柔らかい手をしとるのう」
右側に座っている松井は、琴の手が塞がっているのをいいことに、馴れ馴れしく手や膝を撫で回した。
やがて二人は、露骨に琴を取り合い始めた。
「ベタベタと触るな!明里が嫌がっているだろう」
杉山が松井の手を払い退ければ、
「あんたこそ、ダラダラ退屈な話を続けるのは止したらどうだ?明里がずっと困った顔をしとるのが分からんのか」
そう言って、松井は琴の肩を引き寄せる。




