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幕末カタナ・ガール  作者: 子父澤 緊
角力之章
335/404

花街の諜報戦 其之壱

壬生浪士組副長山南敬介は、島原遊郭の大門だいもんの前で中沢琴と待ち合わせていた。


「少し遅れたかな」


急ぎ足で坊城(ぼうじょう)通りから花屋町(はなやまち)通りの角を曲がると、先に来ていた琴が門の横にある柳の木の下で小さく手を振っている。


「すまない。ちょっと沖田くんに捕まってて…」

山南は、言い訳をしながら小走りに近づくと、琴の顔を見て少し驚いた。

「どうしたんだ?赤い目をして」

琴は少し恥ずかしそうに目尻めじりを押さえて、

「えっ、そんなに?…いや、ちょっとその、ここのところ、少し寝不足が続いてて…」

と、珍しくハッキリしない。

「そういえば、前に会ったときはドタバタしていたせいで聞けなかったが、例のたずね人の件、上手くいってないんですか」

「あの件で、もう私に出来ることはないので…」

しかし、今日の琴は顔色も良くない。

山南の心配はつのった。

「毎日、夜遅いんじゃないのか。本当に平気なんだろうね?」

「ううん、気にしないで。ほんと、大したことじゃないの」

まさか、花君太夫と一之天神(いちのてんじん)の声が気になって寝つけないとは言えない。

山南が(いぶか)しむのをみて、琴は誤魔化ごまかすように二つ折りにした半紙を押し付けた。

「はい、これ」

山南は、差し出されたその手首をつかむと、問いかけるように琴の顔を見つめた。

琴は急にドギマギして、手を引っ込めた。

「…人斬り半次郎の情報!正直、読む価値もないと思うけど」

「まあ、そういつも上手くいくとは限らんさ。それより…」

「分かってる。ほんと。危ないことはしてない」

山南はまだ疑わしげに、琴の顔をのぞき込んでいる。

「信じないなら、聞かなきゃいいでしょ!」


琴の口調が、以前のように打ち解けたものになったのに気づいて、山南は少しほお(ゆる)めた。

「分かったよ」

そう言ってようやく半紙を受け取り、走り書きのメモを開く。


その紙は、どう見ても使い古しで、誰かの書いた文字が裏写(うらうつ)りしていた。

表を返すと、それは明里天神に宛てた熱烈な恋文ラブレターだった。

この短い間にも“傾城けいせいの美女”明里のファンは膨大ぼうだいな数にのぼっていた。

琴は今さらハッとして、言い訳を始めた。

「なんか当てつけるみたいでいやだったんですけど、覚えてるうちに書き留めなきゃと思ったら、紙がそれしかなくて…」

山南が、ぎこちなく笑った。

「…いや、いいさ。無理を言ってるのはこっちだ。もし、わたしたちの関係が以前と同じなら、こんなことをさせている私は、相当ひどい男ということになるな」

琴は、その言葉をどう解釈してよいか分からず、しばらくの間、固まったように山南の眼を見つめていた。

花香のことがあってから、色恋沙汰いろこいざたには過敏になっているせいなのか、

自分の顔が火照(ほて)っているのに気づくと、あわてて話題を変えた。

「あ…と、ところで大坂の件はもう聞いてますか?」

山南は応える代わりに、小さく目をすがめた。

「その顔じゃ、まだみたいね」

「何の話です?」

「例の老中ろうじゅうが、天保山に船を乗りつけたそうよ」

「そう…ついに、来たか」

山南は、表情を引き締めた。

「山南さんたちも、大坂に行くことになるの?」

「気乗りはしないが、行けと言われれば、断れんだろうな」

宮仕(みやづか)えの(つら)いとこね。けど、自業自得(じごうじとく)よ」

琴はわざと皮肉めいた言葉を選んだ。

「にしても耳が早いじゃないか」

「そりゃそうでしょ。いったい輪違屋わちがいやに何人の芸妓(げいぎ)がいると思ってるの?

何処(どこ)かのお座敷で、客の誰かがひとことでも気になる(うわさ)を漏らせば、次の日の朝には、置屋(おきや)の茶の間で話題に(のぼ)るわ」

当時、輪違屋には30人以上の芸妓げいぎが在籍していた。

「なるほどね」

山南は、その情報伝達のカラクリを聞いて、花町の情報の重要性にいち早く気づいた土方歳三の慧眼けいがんに今さら感心していた。


琴は口調を改めて忠告した。

「気を付けてくださいね。多分、小笠原の船が入港したことで、大阪の治安は混乱してる。市中の警護は表向き播州小野ばんしゅうおの藩が任されてることになってるけど、実質的に見回りを仕切っているのはヤクザの明石屋一家なの。しかも、頭目とうもくの明石屋万吉と大坂西町奉行おおさかにしまちぶぎょう内山彦次郎うちやまひこじろうには、過去にちょっとした因縁(いんねん)があって、まるで連携(れんけい)が取れてない」

「ああ。二十日も大坂にいたんだから、そこら辺の事情には多少通じてる」

山南は、少し不機嫌な調子で応えた。

気に入らないのは、琴が山南たちの情報網じょうほうもうを甘く見ているからではなく、最近の彼女が政情せいじょうに通じすぎているからだ。


「逆に言えば、浪士組にも活躍の機会があるかも。土方さんが喜びそうね」

「…難しいだろうな。我々もその内山には目をつけられてる」

「なぜ?」

山南は答えない。

琴は小さく降参こうさんのポーズを取って苦笑した。

「…分かったわ。詮索(せんさく)はしない」

山南はフッと息をついて、悲しそうに(うつむ)いた。

「京に来てから、君とはこんな話ばかりしてるな」

「江戸にいた頃は違った?お芝居(しばい)とか、今だったらお祭りの話とか?そうね。久しぶりにそんなのも楽しそう。少しお茶屋でお(しゃべ)りをしていけば?」

山南は目を閉じて、残念そうに(かぶり)を振った。

「こんな時間からか?遠慮しとくよ。それより、もう行かなくて大丈夫なのか?」

琴も小さく肩を落とす。

「山南さんが、私の時間を買ってくれればいいのに」

山南は、思わず琴の肩を抱きすくめそうになる気持ちを抑え込んだ。

「すまない。いつか埋め合わせは…」「ウソだってば。謝らないで」


山南は琴に翻弄ほんろうされている自分に苦笑いした。

「いいですか、くれぐれも言っときますが…」

「無理はしない!ほんと。さ、飲まないなら帰って。商売の邪魔じゃまよ」

琴が悪戯いたずらっぽく笑うと、

山南は小さくうなずいて、トボトボと立ち去っていった。


自分達は無力だ。

それだけは江戸にいた頃から何も変わらない。

琴は肩を落として、山南に背を向けた。


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