バタフライ 中篇
ようやく調べの間の前に辿り着いた時には、二人とも消耗し切っていた。
だが、更にここからが正念場である。
沖田は入り口にピタリと寄り添うように立ち、小声で中に声をかけた。
「浪士組、参りました」
襖が少しだけ開き、中年の男が顔を覗かせて、
「来たか」という風に無言でうなずいた。
東町奉行、永井尚志その人である。
永井は廊下の外に目を走らせ、周囲に誰もいないことを確認すると、
二人が通れるだけの隙間を開けた。
沖田と斎藤は、それを合図に、調べの間に滑り込んだ。
部屋に入り、最初に目に飛び込んできたのは、憔悴した田中新兵衛の青白い顔だった。
とは言え、彼は相変わらず縄も打たれず、手足の自由は奪われていない。
この部屋で、人斬りと恐れられた男と二人きり、差し向かいで話をするなど、永井という奉行は、思ったより豪胆な人物と見える。
もっとも、この二人はある意味で大獄に抗った同志とも言えた。
永井が京都町奉行に赴任して早々に着手したのが、井伊直弼の息が掛かった与力の罷免で、
その際に首になった与力たちを、石部宿でまとめて殺害したのが田中新兵衛である。
不思議な巡りあわせだった。
永井は無造作につかんだ刀を、沖田にヌッと差し出した。
姉小路殺害の証拠とされた田中新兵衛の差料である。
これを渡せということらしい。
「後のことは頼む」
言い置いて、永井は部屋を出る。
静かに閉じかけた襖を、斎藤が手を差し入れて止めた。
「永井様」
斎藤は半身を廊下に出して、奉行に耳打ちした。
「一言よろしいか…今後、“汚い仕事”は、直接拙者、斎藤一にお命じを。近藤先生を巻き込まないで頂きたい」
永井は、しばらくの間、斎藤の顔をマジマジと見つめた。
「斎藤とやら…覚えておけ。ご公儀に汚い仕事などというものは存在せん。だが、その件は、会津の広沢に伝えておこう」
「…」
斎藤は、その発言の意味するところを咀嚼した。
「そうそう」
永井は斎藤の手を取り、何かを握らせた。
「これを田中新兵衛に返してやってくれ」
斎藤は手のひらに載せられたユニコーンの根付を見て、顔を上げた。
「これは?」
「刀や下駄と一緒に現場に落ちていた物だ。珍しい象嵌だから大事な物かもしれんでな」
「…承知しました」
斎藤は頷きながら、中身を改めた。
何も入っていないが、何かツンと鼻をつくような匂いが残っている。
一方、沖田は人斬り新兵衛に眼を釘付けにされていた。
「どうも」
新兵衛が瀕死の状態であることは誰の眼にも明らかだった。
それでも強がって、小バカにしたような薄笑いを浮かべている。
「会津の悪童か。良くさ、おさいじゃした」
沖田はツカツカと歩み寄り、新兵衛の眼前にストンと膝をつくと、無言で刀を置いた。
二尺三寸(約73㎝)の奥和泉守忠重。
柄の部分には、浪士組のイメージカラーと同じ浅黄色の糸が巻きつけてある。
新兵衛は、問い返すように沖田の顔を見上げた。
「薩摩屋敷からの預かり物です」
それだけ言えば分かるだろうという口ぶりだった。
新兵衛の笑みに、自嘲的な色が混じった。
「なるほど。武士ん情けちいう訳かい。俺が息をしちょってはマズイ奴らからん差し入れじゃっどな?」
沖田は、返事代わりに、ただ肩をすくめて見せた。
そこへ斎藤が戻ってきた。
新兵衛は、じっと自分の刀を見つめている。
「そいつは、あんたのものに違いないな?」
斎藤はおざなりに尋ねた。
こんなことは、もう何十回も訊かれているはずだ。
「永井どんにも申したどん、覚いちょらん」
新兵衛は素気なく応え、傍らに置かれたもう一つの証拠物件、薩摩下駄に視線を落とした。
浪士組の追跡から逃れ、窮地を救ってくれた辻君と枕を交わした翌朝、行方知れずになっていたものだ。
誰かに堕とし入れられたことを悟った新兵衛は、その後、一貫して黙秘を貫いてきた。
「それから。あんたの下駄と一緒にこれが現場にあったそうだ。これにも見覚えはないか?」
斎藤は、調書を取るための床几にユニコーンの根付を置いた。
新兵衛は、ほんの一瞬、目を見開いた。
「こいは…」
自分がスケープゴートにされた計略には、やはりあの女が関わっている。
あれ以来、ずっと頭から追い払おうとしてきた疑念が、確信に変わった。
沖田は何やら考え込む新兵衛の様子をしばらく観察していたが、うつろなその眼からは何も読めない。
「これは私の純粋な好奇心から聞くんですが、一ついいですか?」
「何な?」
「なんで、姉小路卿を斬ったんです?あの人は、お仲間の、云わば旗頭なんでしょう?」
「あいは裏切者じゃ」
新兵衛は吐き捨てるように答えた。
「武市半平太がそう言った?」
「武市様は関係なか」
「つまり貴方は、まあ誰かからの指示があったにせよ、自分の意思で暗殺を決めたってことなんでしょうか?」
「当たい前じゃっど」
新兵衛の返事は、ある意味で明確な犯行の自白とも取れる。
しかし、沖田にはその言葉の何処かに迷いのようなものが感じられた。
彼は、ただの捨て駒なのかもしれず、もしかしたら、それを自覚しているのかも知れない。
沖田が新兵衛と今の自分を重ね始めていることに気づいた斎藤は、早々にこの話題を切り上げた方がいいと感じた。
「独立自存を気取るのもいいが、俺にはむしろ孤立無援という風に見えるがな。誰かへの義理立てなら、果たして沈黙を守るだけの価値があるのか?」
「うぜらしか!」
新兵衛は痛いところを突かれて声を荒げた。
「別に俺には関係ないがな。秘密は墓まで持って行くがいい」
斎藤は突き放した。
沈黙の後。
「…田中河内介ちゅう男を知っちょっどかい?」
新兵衛は、唐突に尋ねた。
沖田が目をすがめる。
「誰です?」
「敵からも味方からも忘いらいた男じゃ。そげな男がまこて居たもんか、今となっちゃ、そいすらアヤフヤじゃ」
その名を知る斎藤は、新兵衛が何を語ろうとしているのか訝った。
「あんたも関わったのか」
寺田屋事件の「事後処理」に。
鋭い目で尋ねる。
「ちごっ。俺は、でえな人を斬ったどん、会うた事もない、そん田中河内介ごたる亡霊に毎晩悩まさいちょっど」
「あんたは、今まさにその田中河内之介と似た立場にいるように見えるが」
もちろん、諸大夫であった田中河内之介と新兵衛では、まるで身分が違う。
しかし、組織に切り捨てられ、意図的に忘れ去られたという意味においては、何ら変わらなかった。




