バタフライ 前篇
文久三年五月廿六日。
暮れ七つ前…。
二条城の南。京都東町奉行所近辺。
浪士組副長助勤、沖田総司と斎藤一が、その裏門近くで所在なくウロウロと時間をつぶしていた。
「…我ながらヘタクソだと思うんだよな」
突然、なんの脈絡もなく沖田が打ち明けた。
斎藤には、告白の意味が分からない。
「なにが?」
「何がって、こういう…隠密行動、みたいな?例えば今、此処で、あの門が開くのを待ってる訳じゃない?そうするとさ、如何にもそういう人待ち顔になっちゃうっていうか。ない?そんなこと。だってさ、何事もないふりなんて…」
「だったら、なぜ引き受けた?」
斎藤は取り止めのない話をバッサリ断ち切った。
「え?」
「こんな仕事は、誰もやりたがらん。だが、あんたはずいぶんあっさり承諾したな。あんたなら断れたはずだ」
「だって、土方さんと山南さんの顔、見た?アレ、ホントは永倉さんと同じ気持ちなんだ。これ以上板挟みにされるのは見てらんないだろ。斎藤さんもそうじゃないの?」
斎藤は一瞬返事に詰まり、
「…俺は…」
応えようとして、またすぐに口を閉ざした。
外回りから帰ってきたと思しき与力が、不審な二人組に気づいて、近づいてきたからである。
というのも、当時二条城にはまだ南門がなく、普段ならこの道は、近隣の上屋敷の住人を別にすれば、東町奉行が月番の間だけ、わずかにその関係者の往来があるのみだったからである。
「何をしている」
与力は尋問口調で二人の顔を覗き込んだ。
幸先の悪いスタートに、沖田は耳の後ろを掻きながら渋い顔をした。
「さて、どう切り抜けたものかな」
ところが、それは杞憂に終わった。
「深谷様、そのお方たちは怪しい人やありません」
まるで見計らったように裏木戸から籠を担いだ若い娘が出てきて、二人の身元を請け負った。
見れば、屯所に出入りしている八百屋の娘、あぐりである。
「おう、八百藤の。お前の知り合いか」
深谷と呼ばれた与力は、あぐりと顔見知りらしい。
「ええ。うちもお世話になっている壬生浪士組の方々です」
与力はあぐりの言葉を疑いはしなかったが、その名を聞いてなお不愉快な顔になった。
「こんなところに壬生狼が何の用や?」
「いつもの見回りですよ」
沖田はサラリと応えた。
「バカか?ここは奉行所の前だぞ。見回りなど無用」
「一応、順路が決まってるので」
「ふん、馬の骨どもが」
与力は、吐き捨てて表門の方へ去って行った。
「確かに、友好的な態度とは言えんな」
斎藤はその後ろ姿を見送りながら可笑しくもなさそうに嗤った。
「助かったよ。ありがと」
沖田は頭を掻きながらあぐりに歩み寄った。
「こんなとこで、何したはるんです?」
「あぐりちゃんこそ」
「わたし?私は、お野菜売りに来たに決まってるやないですか?」
「あ、そっか。あんまり都合よく出てきたから…あのさ、今急いでるから、また今度、説明するよ。さ、ほら、行って」
沖田は追い立てるようにあぐりの背中を押した。
「あ、はあ…」
あぐりは振り返りながら小さく頭を下げ、沖田たちが来た方角に歩いて行った。
「ふう…」
沖田がため息を漏らしたそのとき、
門の中から、ガタンと閂を外す、くぐもった音が響いた。
あぐりが出てきた裏木戸の隙間から、初老の男が顔をのぞかせ、二人に
「壬生浪士か?」
と小声で尋ねた。
永井が事前に抱き込んだという下男だろう。
二人は無言でうなずく。
「入って」
町奉行所の中は、二人が想像していたよりずっと広く、雑然としていた。
「ははあ、立派なもんですねえ」
沖田は感心しながら振り返ったが、下男はすでに何処かへ姿を消してしまっていた。
「あら?いない…これ以上関わりたくないって感じ?」
苦笑を漏らす沖田の肩を斎藤が叩いた。
「急ごう」
二人は山南に見せられた絵図面を頭に思い描きながら、奥へと進んだ。
一つ角を曲がるたび、耳を澄ませ、神経を尖らせる。
途中、何人かの使用人と顔を合わせたが、
みな腰を低くして、小さなお辞儀をしてすれ違ってゆく。
「いやあ、羽織の効果って絶大だね。わたしも作ろうかな…」
沖田は少し調子が出てきたらしく、上機嫌で胸を反らせる。
しかし、台所を過ぎ、勝手用人の詰所の前まできた時である。
「もし。ここは算盤侍の部屋にございます。失礼ですが、どちらかの御家来衆でしょうか?」
内衆と呼ばれる使用人が、行く手を阻んだ。
二人は咄嗟の答えに詰まり、それをさらに怪しんだのか、
内衆は間を詰めて、二人の羽織の紋を検めるようにジロジロと眺めはじめた。
「お見かけしない顔ですな…」
沖田は粘りつくような視線を振り払うように、大袈裟な身振りで応えた。
「公事人の溜まり(待合室)で待つよう言われてたんだが、厠を探すうちに迷っちゃってね。何処か分かる?」
「…それなら、外ですが」
内衆は背後を指差した。
「ありがと」
二人はいそいそと、その場を離れようとしたが、
「ちょっと、待ってください」
内衆はさらに追いすがってきた。
沖田は斎藤の左手がゆっくりと刀に伸びるのに気がついた。
このままでは刃傷沙汰である。
「なにか?」
平静を装いながら斎藤の前に立ち、抜刀を封じた。
「念のため、お名前を」
沖田は内衆の両肩を掴み、眼で斎藤の方を指して、
「この人は厄介な天誅事件専門の出入師だ」
出入師とは係争に介入してマージンをせしめる法曹界のゴロツキで、要するに非合法の弁護士のようなものである。
沖田の視線に釣られた内衆は、斎藤の方を見て、その刺し貫くような眼光に晒された。
「悪いことは言わないから関わらない方がいい」
斎藤は男を斬ることも辞さないつもりでいたから、
彼が裏稼業を生業にしているという沖田の話は一層説得力を帯びた。
「し、失礼をいたしました。御免くださいませ」
内衆は冷や汗をかいて退散したが、実のところは、沖田達も同じ心持ちだった。
「正気ですか?こんな所で、やめてくださいよ!」
沖田に勇み足を咎められると、斎藤もムッとして言い返した。
「…人の事を無法者呼ばわりしておいて、よく言えるな」
二人はしばらく小声で言い争っていたが、鉄砲部屋を抜ければ、いよいよ白洲(法廷)に通じる回廊へ出る。
山南が念を押した危険区域だと思うと、自然と口も重くなった。
斎藤が襖の引き手に指を掛けたとき、その向こうに人の気配を感じて、ピタリと動きを止めた。
襖一枚を隔てた廊下を通りかかったのは、与力の一人、草間烈五郎だった。
沖田は知る由もなかったが、浪士組隊士殿内義雄の頓死を調べていた男である。
草間は何かを感じたのか、二人の前で立ち止まり、感覚を研ぎ澄ませるように、辺りの気配を伺った。
斎藤と沖田は目配せを交わし、息を止めて、男が通り過ぎるのを待った。
「なにやつ!」
声がして、
草間が、沖田たちのいる部屋の襖を開けた。
二人はその襖に背中を張り付けるようにして息を潜めたが、
もし、草間が一歩でも足を踏み出せば、すぐ視界に入る距離だ。
カチリ。
草間が刀の鯉口を切る音だけが聞こえた。
そのとき、
「草間様、お白洲が始まります」
向こうから誰かの呼ぶ声がして、草間はそれでもしばらくその場を動こうとしなかったが、
やがて、「お奉行が呼んでおられます」と急かされると、
「すぐ行く」
と応えて静かに襖を閉じた。
「ふーっ…」
危機一髪の事態を脱して、沖田と斎藤は深く息を吐き、
足音が聞こえなくなるのを待って部屋を出た。
磨き上げられた廊下に人の姿はない。
二人は神経を張り詰めながら、一歩一歩進んだ。
冷たい廊下の軋む音が、とてつもなく大きく聴こえる。
両側に並ぶ部屋の襖が、いまにも開くのではないかと思うと、
ほんの数間が、一里にも感じられた。




