青蓮院の人斬り 其之肆
その同じ頃。
場面は変って、浪士組屯所の少し北、浜崎診療所。
「ああもう!」
往診から帰った浜崎新三郎は、廊下の奥からただ事でない声がするのを聴きつけた。
声のした方へ向かうと、納戸の前に助手の秩がぺたりと座り込んでいる。
「どうした?」
その後ろ姿に声をかけると、秩が途方に暮れた顔で振り向いた。
「ああ、お帰りなさいませ。いえ、この列に、打ち身の薬が全部収まってたはずなのに、入らないんです」
往診用の薬箱に小分けした生薬を、百味箪笥の細かく仕切られた引き出しに戻そうと悪戦苦闘しているらしい。
「珍しいな」
「そうなんです。いつもならスッキリ収まるのに」
「いや、君がそんな風にイライラしているのが、さ。というか、昨日からおかしいぞ?」
「べ、別に。イライラなんてしてません!」
「なんかあったのか?浪士組で、何か言われたとか?」
「なな、何かって、なんですか?」
「こっちが聞いてるんだろ。まあいい。今日は忙しくて浪士組に寄る時間がなくてね。悪いが、大松さんに、この薬を持って行ってくれないかい?」
「あ、はい。いってきます」
秩は、これ以上の詮索を逃れるためか、浜崎が差し出した薬を引っ手繰るようにして、そそくさと出て行った。
しかし、門を飛び出した途端、秩の足取りは重くなった。
あんなことがあった後、沖田とどんな顔をして会えばいいのだろう。
悩みながら浪士組へと向かう途中、八木家の女中祐とばったり出くわした。
屯所に出入りする二人は、当然互いの顔を見知ってはいたが、とは言え、これまであまり話す機会を得なかった。
「こんにちは。ん?もうこんばんはかな?」
祐がペコリと頭を下げると、秩も微笑んでお辞儀を返した。
「こんばんは。まだお仕事ですか?」
「いやまあ、お仕事というか…」
「ご苦労様です。ちょうどいま、八木さんのお宅にお薬を届けようと…」
「そうなん?うちも診療所へ行くとこでした」
「こんな時間にどうしたんですか?」
祐は風呂敷に包んだ重箱を差し出した。
「これ。お裾分けです。一段目が鯉の洗いで二段目が焼魚。皆さんでどうぞ」
受け取った秩はその重みに目を丸くした。
「え?こんなに!どうして?いいんですか?」
「みんな揃って出て行ってしもたから、腐らしても勿体ないし…」
途端に秩の表情が曇った。
「こんな時間に?ひょっとして、猿が辻の件でしょうか」
「そうみたい。下手人が見つかったんやて。どうなるんでしょうねえ」
「それは…やっぱり、沖田さんも?」
祐は、秩の顔をじっと見つめた。
「…え?ああ、張り切って行ったで?けど、独りで鎖帷子もよう付けんと、着替えまで手伝わされて、まったく手のかかるヤツですわ」
「そ、そうですか」
「そう」
寂しげに俯く秩に釣られて、祐の方も沈んだ面持ちで頷いた。
そして、夜。
ここで、芹沢が田中新兵衛の潜伏するという武家屋敷の門を蹴破ったところにようやく話がつながる。
会津藩物頭、安藤九左衛門に率いられた浪士組が、屋敷を取り囲んでいる。
芹沢が門を壊した音を聴きつけた薩摩藩士が、抜き身をぶら下げて玄関からドカドカと現れた。
小太りで背の低い男とがっしりした体格の良い男で、いずれも怪我をしている様子はなく、深手を負ったという田中新兵衛ではなさそうだ。
「お前らぁ、何奴じゃ!無礼じゃろう」
芹沢は、二人を睨みつけた。
「そこを退け。用があんのは人斬り新兵衛だけだ」
さらに前に出ようとする芹沢の肩を、近藤がグイと掴んで引き戻す。
「芹沢さん!一人で行っては危ない」
「おっとそうだったな、忘れてたよ。一緒に来て、俺がこいつらをぶっ殺しそうになったら止めてくれ」
そこへ、玄関からもう一人、痩せた総髪の男が現れた。
「…せからしか」
どす黒い顔色で、腹には晒を巻いており、やつれ具合を見てもかなりの重傷らしい。
これが新兵衛だと芹沢は直感した。
「…その怪我は刀傷か」
「おはんらに関係なか」
その声には張りがなかったが、それでいて断固たる拒絶の響きがあった。
芹沢たちの後ろで平山五郎と野口健司が目配せを交わした。
「芹沢さん、あの時の男です」
野口が芹沢の耳元にささやく。
「は?」
「ほら、因幡薬師で岡田以蔵と一緒にいた…」
芹沢はニヤリと口元をゆがめた。
「ほほう、そいつぁ奇縁だな。じゃあ借りを返してもらおうか。大人しく縛につきな」
「おはん、奉行所の人間には見えもはん」
痩せているものの、巨躯を誇る芹沢と同じくらい上背がある田中新兵衛は、真正面からその視線を跳ね返した。
玄関先での睨み合いが続く中、この場を取り仕切るべき自分を置き去りにして話が進むのに業を煮やした外島機兵衛が、芹沢を乱暴に押し退けた。
「拙者、朝命にて参った会津公用人の外島機兵衛と申す。籠を用意してあるゆえ、坊城家まで同道願いたい」
もちろん、籠とはいっても、罪人を護送するための唐丸籠である。
新兵衛は血の気の引いた顔で、外島を品定めするように見つめた。
「おやっとさあごわす。そん前に、こん狼藉について説明してもらいもんそ」
「行き過ぎがあったことは認めます。しかしこれは武家伝奏坊城様直々のお召しです」
外島が苦り切った顔で罪状を伝える間、新兵衛は立っているのも辛そうだった。
それを聞いた薩摩藩士たちは判断に迷って顔を見合わせ、手負いの新兵衛に頼った。
「如何んすかい?」
「よか。じゃっどん、科人扱いを受けっ謂らなかで、腰ん物を預けったぁお断いしもす。奉行所へは、こん脚で歩いて行っで」
新兵衛はこの期に及んでも罪を認めようとしなかった。
芹沢はニヤニヤ笑いながら、晒を巻いた傷口に鉄扇の先をグイと押し付けた。
新兵衛の顔が、苦悶に歪む。
「何言ってっか、半分も分かんねえがな、イモ侍の兄ちゃん。とにかく、随分エラソーなことだけは伝わってきたぜ?確かに、あんたのカタナ一振りで、政局の潮目が変わるだろう。大仕事をやってのけて、さぞいい気分だろうが、あんたはここで終わりだ。今からグルグルに縛りあげてやっから覚悟しやがれ。おう、野口!ナワ持ってこい」
「は、はい」
走り出そうとする野口を、外島が慌てて引き止めた。
「まて!縄を打つ必要はない」
芹沢はうんざりした顔で振り返った。
「おいおい、正気か?」
「下士とは言え、島津公の家臣だ。坊城家に身柄を引き渡すまでは、礼を以て接するよう心得よ」
芹沢は平山と目を見合わせ、呆れた様子で首を振ると、地面に唾を吐いた。




