デリケートな問題 其之壱
文久三年五月廿五日。深夜。
東洞院通蛸薬師入ル。
会津藩物頭安藤九左衛門が発した密やかな号令一下、暗闇に紛れて、四十人の黒い影が、その屋敷を取り囲んだ。
「おい!指示を聞いてなかったのか!貴様らは南側の裏口を固めろと言ったはずだ!」
安藤に背中を小突かれた影が振り返った。
「なんだあ?お前なんかに偉そうに命令される筋合いはねえぞ」
原田左之助の声である。
「浪士輩が!ここでは、足軽頭の私の指示に黙って従うのがお前たちの仕事だ」
「ふざけんな!」
原田が突っかかると、安藤は後ろを振り返った。
「山南!土方!お前らの兵卒は、いったいどうなっている」
山南敬介が進み出て頭を下げた。
「統率の乱れは申し訳ないと存じますが、ご容赦願いたい。何せ彼らも、つい先ほど捕縛に協力せよとの命を聞き、急ぎ駆けつけた次第にございますれば」
「そういう問題ではないだろう?こいつが今口応えしたのを聞いたな?浪士組では、上の者に従うよう教育しておらんのか!?」
山南は無表情のまま、安藤に額を突きつけるほど詰め寄った。
「そのご不満には承伏いたしかねます。我らは近藤、芹沢両局長の配下ゆえ、そこまで上下の指示系統に拘られるのであれば、貴殿の命令に従う道理はない。ご不満なら、ご自身の部下を率いればよろしいでしょう」
山南には普段見せることのない勝気な一面があって、こうなるとテコでも動かない。
現実家の土方歳三が、めずらしく山南をなだめた。
「よせ。気持ちは分かるが、とにかく今、内輪揉めしてる時間はない。先に仕事を片付けちまおうぜ」
「…うむ」
山南が渋々引くと、土方は続いて原田を振り返り、
「おい左之助、お前もちったぁ辛抱しろ。ガキじゃあるめえし」
と背中を叩いた。
「ちっ。山南さんに免じて許してやらあ。おうみんな、南に周れとよ」
原田が手のひらで後続に合図を送る。
「なんやねん。結局、ワシらはただの捕手ちゅうことやんけ!」
「手柄だけは、会津藩のもんてワケかよ?」
松原忠司と藤堂平助が隊士たちの気持ちを代弁するように不平を漏らす。
年長の安藤早太郎が、皆を諭した
「そう言うな。なんと言っても相手はあの人斬り新兵衛だ。ここは俺たちの腕を見込まれたと思って、意気に感じようや」
屋敷の塀伝いにヒタヒタと走りながら、永倉新八が毒づいた。
「けっ!なんかあっても死ぬのは俺たちだからな」
彼らが取り囲んだ屋敷の門の前には、外島機兵衛をはじめ、公用方の松坂三内、広沢富次郎と、浪士組局長芹沢鴨、近藤勇が立っていた。
外島は手勢の片隅が騒がしいのを気にしながら、二人の局長に尋ねた。
「あちらで、何やら揉めていたようだが?」
芹沢が別段珍しい事でもないと肩をすくめる。
「無作法者が多くてすんませんね。食ってるものが貧しいせいか、どうも皆、気が短くていかん」
「芹沢さん、軽口は沢山だ。さっさと踏み込もう」
そう言って刀の鯉口を切る近藤を、外島が押しとどめた。
「まあ待て近藤。まずは正面玄関から入り、取り次ぎに田中への面会を乞う」
芹沢が信じられないという風に、自分のこめかみを指した。
「ハア?あんた、気は確かかい?相手は人間の頭なんか肩の上に載ってる漬物石くらいにしか思ってない連中だぜ?そんなケダモノの巣穴に御免下さいって首を突っ込むのかよ?」
「この捕り物は、貴様らには考えの及ばぬ繊細な問題を含んでおるのだ。薩摩との関係を考えれば、まずは彼らの面子を立てねばならん」
「やれやれ、ここでもまた政治か」
近藤はゲンナリした顔で芹沢と目を見合わせた。
まったく、三百年近くのあいだ惰眠を貪ってきた侍という人種の緊張感のなさと堕落ぶりときたら、信じられないほどだ。
芹沢と近藤は、ほぼ同時に抜刀した。
「行くぜ、近藤。手負いとはいえ、相手は名腕の人斬りだ。下手打って足を引っ張るなよ」
「芹沢さんこそ、慢心して不覚を取るなど、みっともない姿を晒さぬよう」
「ホザけ」
芹沢は、ニヤリと笑うと派手にくぐり戸を蹴破った。
閂の棒が折れ、蝶番が曲がっている。
驚くべき脚力だった。
これには外島が血相を変えた。
「おい!私の話を聞いてなかったのか!」
芹沢は怒声を無視して刀を構え、油断なく周囲に気を配りながら敷地に踏み込んだ。
続いて近藤が中に入り、芹沢に背中を預ける形で内側から閂を外し、門を開放する。
「失礼の段は我々浪士組のせいにすればよろしい。扉を開くなり示現流の一撃を食らえば、繊細な問題とやらに悩ませる頭も失いますぞ」
さて、ここで、この深夜のドタバタ劇が演じられることになった経緯を追っていきたい。
この日、芹沢、近藤、谷、山南、土方ら浪士組の大幹部は、近ごろ二条城内でしきりに取り沙汰されている将軍の江戸帰還を押し止め、このまま京に留まっていただくよう上申するため、朝から奔走していた。
最初に訪れたのは、禁裏のなかにある学習院である。
学習院というのは、本来朝廷と諸藩をつなぐ調停機関であるが、浪士組のような末端組織や、あるいは市井の政治結社などから日々山のように届く意見書などを受け付ける業務も行っていた。
隊士全員が署名した上申書を提出して禁裏の中立売門を出ると、近藤が腑に落ちない顔で土方に問いかけた。
「俺もそれほど此処を知ってるわけじゃないが、何か、いつもと違って妙にザワついてなかったか?」
「学習院を牛耳ってた姉小路が斬られたばかりだ。宜なる哉ってやつさ」
土方は笑って取りあわない。
この日も浪士組隊士たちは、方々に散って探索を続けていたものの、ここまでの結果は捗々しいとは言えず、依然暗殺者の正体も知れなかった。
続いて、老中板倉勝静宛の書簡を二条城に提出して、残すところは京都守護職本陣金戒光明寺だけであったが、城の大手門を出るころには、もう陽が傾いていた。
お役所仕事の緩慢さという伝統は、今も昔も変わらない。
「やれ疲れた。会津中将に上申書を差し上げるのは、明日にした方がいいんじゃないかな?今からあの石段を上るのは、わたしゃ考えただけでゾッとするんだがね」
谷右京老人が、肩で息をしながら皆に提案した。
「私が負ぶって行きましょうか?」
お供の島田魁が申し出ると、もう一人のお供、林信太郎が首を横に振った。
「しかし、この時間じゃあまり歓迎されないかも知れませんよ」
そんなことを話しながら歩いていると、門の外で副長助勤の斎藤一率いる一隊が、一行を待ち構えていた。
「どうした?」
近藤勇が立ち止まって尋ねた。
「屯所に黒谷本陣からの遣いがあり、至急来られたしとのこと」
斎藤は簡潔に用件を述べた。




