HUSH-HUSH Pt.2
「現場にいた隊士たちの話では、男はずいぶん貴女に執着していたようだ。ではまた貴女を狙う可能性もあるんじゃないですか」
本心を言えば、山南が一番心配していたのはそれだった。
しかし、土方の前で私情を持ち出すわけにはいかない。
一方、琴は、沖田総司と安藤早太郎に感謝していた。
この様子では、琴と以蔵の間で交わされたやりとりまでは聞かされていないようだ。
「なあに、心配するこたねえさ!おれが護ってあげるよ…お琴」
抱きすくめようとする永倉の腕を、琴はツネりあげた。
「いてててて!」
「ありがと。でもご心配なく」
頬杖を突きながら、土方が皮肉っぽく笑う。
「名高い人斬りが向こうからノコノコ現れてくれるんなら、狩り出す手間も省けるってもんだよな?」
「そうね」
無表情に応じる琴に、山南がまた厳しい口調で訊ねた。
「じゃあなぜ、そんな奴を野放しにしたんだ」
「奴の口から、知人の名前が出たの。土佐の坂本龍馬」
「聞き覚えのねえ名だが」
土方は記憶の糸を手繰って眉を潜め、その場にいたほとんど全員が一様の反応を示した。
ただ山南だけが、僅かに動揺の色を見せたのを琴は見逃さなかった。
琴はさりげなく山南に寄り添うと、
「…ほら、はだけてるわ」
と襟を直しながら、その耳元に唇を寄せた。
「…何日か前、角屋でお座敷を上げた客の一人で、岡田は彼のことを同郷の友人だと言ってた」
山南は、耳打ちした琴の瞳を間近で見つめた。
「あ~!なに見つめ合っちゃってんだよ!山南さんにだけか?おれは?おれの襟は?ほら!」
琴は胸元を開いて駄々をこねる永倉に向き直って、荒っぽく襟を正した。
「ぐえ…!」
「…坂本は、海軍操練所の立ち上げに深く関わってる」
土方が思わず腰を浮かせた。
「おいおい、もうそこまで話が進んでんのか?摂海巡視から間もないってのに、腰の重い幕府にしちゃ随分手回しがいいじゃねえか」
「てか、あんた、なんでそんなこと知ってんだよ?」
原田が口にした疑問は、もっともだった。
「それは秘密」
はぐらかす琴に、しつこく永倉が擦り寄った。
「お琴ちゃんは、この謎めいたとこがいいんだよ!おれは信じるね!ああ、信じますとも!」
ただ、琴が隠密まがいの仕事をしている事は、永倉も原田も薄々勘付いている。
山南がようやく重苦しい口を開いた。
「…坂本さんは北辰の同門です。今は勝安房守の下で動いてるはずだ」
軍艦奉行並、勝海舟のことは、彼らも摂海巡視に同行した折、遠目ながら姿を見たことがあった。
土方は、なにか考え込むように親指の爪を噛み、
「となれば、その話も俄然真実味を帯びてくるな」
そう言って、ふと顔をあげた。
「いや、ちょっと待ってくれ?まさかそのイカレ野郎も、武市の下をおん出て、軍艦奉行に飼われてるなんて言う気じゃねえだろうな?」
「それは分からないけど」
正直、琴にもそれ以上の事は言えなかった。
「事実は小説より奇なり」などと言うが、実際、以蔵は勝の護衛の任務に就いたこともあり、その行動は予測できないところがあった。
「確信が持てない以上、下手に手を出さなかったのは賢明かもしれません」
山南は渋々認めるほかなかった。
藤堂平助が、誰にともなくつぶやいた。
「しかし幕府の肝煎りで黒船の艦隊を作るなんて、外国嫌いの姉小路が黙っちゃいないんじゃないスかねえ」
「それがそうでもないらしい」
背後からそれに答える者がいて、皆が驚いて一斉に振り返ると、局長近藤勇が眉間に皺を寄せて立っている。
新参の隊士たちは、油を売っているところを見つかって震えあがった。
「近藤先生!」
「昼間っから、こんなところで幹部が雁首揃えてお茶会か?」
腕組みをして一同を睨む近藤に、永倉があてつけがましく手をヒラヒラと振ってみせた。
「へいへい。ほんじゃま、若いのを引き連れて、その辺をブラッと一周見廻ってきますかね…お琴ちゃん、マタネ?」
名残惜しそうに去っていく永倉に、他の隊士たちも続く。
最後に藤堂平助が、お茶をすすりながら頑なに立ち上がろうとしない原田の後ろ襟をつかんで引きずって行った。
「行ってきまーす!」
土方は悪びれもせず笑って見せ、
「あいつらと会ったのは、たまたまだぜ?」
山南もさりげない風を装っている。
「黒谷(金戒光明寺に会津藩が構える京都守護職本陣)からのお帰りですか?」
近藤は、からかうように土方を睨んだ。
「俺抜きで密談か?」
「拗ねんなよ。それより、さっきのはどういう意味だ?」
「姉小路卿の話か?いや…」
近藤は言葉を濁し、一見、関連のない話を始めた。
「通達があってな。近々、老中の小笠原長行様が上洛されるって話だ」
「清河八郎の台詞じゃねえが、今さらお城のお偉方が何の用だい」
「例の横浜で起きた英国人無礼討ちの件(生麦事件のこと)だが、小笠原様が独断でイギリスに賠償金の支払いを決めたことで、天子様がたいそうお怒りらしい。表向きは朝廷に対してその申し開きにくるって話だが…」
もちろん、如何に老中といえ、孝明天皇と直接接見することはできない。
特に今回の弁済に関する決定は、将軍家茂すら預かり知らぬところで行われたものであったから、まずは家茂への釈明という手順を踏むのが妥当な筋書きだろう。
土方が顎を撫でながら近藤を見上げた。
「表向きってことは、ほんとの理由が別にあるってことか?」
「いや、そういう訳じゃないが…と言うのも、ここから先は、実にマユツバものの話でな。広沢様が漏れ聞いた噂を又聞きしただけなんだ」
近藤が言い澱むのを見て、土方がせっ突いた。
「いいから言えよ。此処には俺たちしか居ねえんだ」
言外に自分への牽制が含まれるのを察した琴は、
「私は外した方がよさそうですね」
と躊躇いがちに後退った。
「いや、いてくれ。ただし、此処で聞いたことは他言無用に願う」




