デカダンスの夢想 其之弐
「あぶない!」
手負いの山野八十八が思わず飛び出して、大松を突き飛ばした。
間一髪、心臓を貫くはずだった切先がわずかに逸れた。
大松の胸板から、血飛沫が飛び散る。
「誤まった~、仕損じてもうたあ」
山野と大松は、そのままもんどりうって倒れ込んだ。
以蔵は、邪魔をした山野を忌々し気に睨みつけ、あばらに蹴りを入れた。
「こん悪ことしが!チョッカイはせられん、言うつろう?」
「ぐっ」
またしても骨の折れる音がした。
「きたねえぞ!この土佐っぽが!」
奥沢栄助の怒声が飛ぶ。
しかし沖田総司は、むしろ戦慄を覚えていた。
確かにこの男は、仏生寺や琴、そして沖田自身のような天賦の才を持っているわけではない。
ただ、彼は相手を殺すという目的のため、もっとも効率的かつ効果的と思われる手段を実行に移すことに、幾許の躊躇もなかった。
「こいつは、厄介な相手だぞ」
彼はつまり、自分たちがつながれている武士道という頸木から、それは旧来の道徳観念を逸脱することへの罪悪感と言い換えてもいいが、そうした古い価値観から、解放された存在だった。
岡田以蔵は、沖田が今までに出会ったことがない、ある意味で最も純粋な戦士だった。
ようやく道場に辿り着いた沖田は、自分の差料を二人の間に投げ入れた。
「お琴さん!」
琴が空中の差料に向かって跳躍する。
しかし。
以蔵は沖田が投げた刀の軌道を読んで、
琴の手がそこに届く一点を狙った。
「しまった!」
沖田が叫んだ。
以蔵がせり上げた刀を振り抜くと同時に、
鮮血が尾を引いて高く舞い散った。
以蔵はニヤリと笑い、
そして、左の肩を押さえた。
「へこすいぜよ…」
その袖には、赤く血が滲んでいる。
「…どういうことだ?」
沖田は、地面に転がる自分の差料と、以蔵の刀傷を見比べながらつぶやいた。
「そがな所に、自分の刀を隠してあったがかよ」
以蔵は、道場の長押を見上げてから、恨めしそうに琴へ視線を戻した。
「あなたみたいな人に、丸腰で会いに来るなんて、本気で信じてたの?」
琴の手には、鞘を払った刀が握られていた。
その刀身は、以蔵の血を吸って艶めかしく光っている。
「これで五分でしょ」
琴が容赦なく振り下ろした刃を、
手負いの以蔵は鍔で受け止め、
琴の身体ごと跳ね返した。
「…軽いのう滝夜叉姫。わしもそろそろ本気を出すぜよ」
以蔵は、刀が柱や長押に当たるのを警戒して、
打ち込みを突き一本に切り替えた。
図らずも短い脇差しに持ち換えたことが功を奏し、
格段に剣のスピードが上がっている。
しかし、琴は天才的な勘で、
ひらひらとそれを交わした。
「滝夜叉姫、まるで舞いゆうようじゃ」
以蔵は、肩から血を吹きながらも、
うっとりした目で満面の笑みを浮かべた。
しかし、規格外の剣を使うという意味では、琴も同じだった。
後退しながらグルリと後方に回転した右手が、
そのまま下から迫り上がって、片手突きに変化する。
「おっと!」
仰け反って剣先を避けた以蔵は、
すぐさま攻撃に転じようとして、
奇妙な浮遊感とともに琴が視界から掻き消えたことに気づいた。
道場の棟越しに夕焼けの空を飛ぶ鷺が見える。
脇差しが空しく空を払った。
鼈甲の簪が宙に浮かび、
ざんばらの髪がなびく。
地面に後頭部を打ち付け、
以蔵は、ようやく自分が仰向けに倒れていることを理解した。
「なんでなが??」
とっさに上半身を起こし、
開いた股の間を見れば、
琴が紅い襦袢の裾を踏んでいる。
「まっこと、へこすいぜよ~」
慌てて刀を握り直したが、
琴はもう一方の脚で、脇差しの根元をガッチリと押さえていた。
「ちょっと気安いんじゃない?」
琴は、冷ややかな目で以蔵を見下ろしていた。
途端に以蔵はヒステリックな声で笑い始めた。
「ハハハハハハハ、ヒヒヒヒヒヒヒ。ヒハハハハハハ、HAH、HeeHeeHeeHee、HAHAHAHAHAHAHAHA!!」
二人の様子は、まるでそれぞれが逆の立場にいるかのように見えた。
「ひざまずきなさい」
琴が切先を突きつけて、冷徹な声で命じると、以蔵は驚くほど素直に従った。
「ひ~ひ…怖いのう」
しかし、涙の跡が残る白塗りの面には、
まだ気味の悪い笑みが張り付いている。
ここにきて、ようやく皆が、騒ぎの中心に引き寄せられるように集まってきた。
安藤早太郎は二人に歩み寄り、とぼけた調子で以蔵に尋ねた。
「いやあ、すまんすまん。つい手元が狂っちゃって。ケガはなかったかい?」
地べたに座り込んだ以蔵は、海老反るように安藤を振り返りニコリと笑う。
「なんちゃじゃない。わしゃ天に愛されゆうき、矢は当たらんのです」
琴は安藤に小さく頭を下げた。
「助かりました」
「しかし妙なところで会うねえ。いや、なに。あんたが時間を稼いでくれたおかげだよ」
安藤は微笑んで、琴に小さくウインクを投げた。
そこへ、子供を壬生寺の浪士にあずけた石井秩が駆けつけた。
副長土方歳三の指示で、佐々木愛次郎と松原忠司を護衛に伴っている。
二人が柔術の達人であることを見ても、まさか刃傷沙汰が起きているとまでは予想していなかったようだ。
少し遅れて、局長代理谷右京も三人に追いついた。
「ありゃ〜、やっちゃってるねえ」
飄然とした姿勢は変わらず、まるで他人事のように、この惨状を評した。
さらに、副長助勤平間重助以下、芹沢一派の隊士たちも、この騒ぎを聴きつけて母家から姿を現した。
八木秀二郎だけが、ただ呆然と立ち尽くし、
その腕の中では、まだ加禰が小刻みに震えていた。
「あ、ひ、秀二郎さん、おおきに…」
初めて人が斬られるのを目の当たりにして、まだ恐怖で歯の根が合わない様子だった。
「いや、そんな、私はなんも…」
目の前で血を流して倒れる大松と、周囲の狂騒を、まるで荒唐無稽な夢のように感じながら、秀次郎はうわの空で返事をした。
手のひらに感じる加禰の体温だけが、わずかに現実とのつながりを感じさせた。
秩は、血を流して倒れる大松を一目見るなり、平間たちに向かって叫んだ。
「戸板を!」
沖田はその様子を見て、
「何やってるんだ!まだ危ないから、ここには近づくな」
と制止したが、秩は袖を襷掛けしながら、大股に怪我人へ歩み寄った。
「いいえ。ここからは私の領分です。ご配慮は無用に。早く戸板を!」
部外者が屯所に出入りすることを快く思っていない平間でさえ、この秩の姿には感じ入った。
「おい、戸板だ。佐伯!ボーっと突っ立ってないで早く持ってこい」
「あ、はあ」
佐伯又三郎が、タンカ代わりの戸板を持ってくると、秩は着物に血がべったりと付くのも構わず、大松の頭を抱き起こした。
「どなたか、足の方を持ってください」
佐々木愛次郎が慌てて駆け寄ると、
松原忠司も秩に代わって大松の上半身を支えた。
「なんやねん。ケンカ終わってもうとるがな。つまらんなあ」
秩は、戸板に乗せられて運ばれる大松に寄り添い、声をかけ続けた。
「傷は浅いです。すぐに血を止めますから、お気を確かに!」




