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幕末カタナ・ガール  作者: 子父澤 緊
人斬之章
282/404

デカダンスの夢想 其之弐

「あぶない!」


手負ておいの山野八十八が思わず飛び出して、大松を突き飛ばした。

間一髪かんいっぱつ、心臓をつらぬくはずだった切先きっさきがわずかにれた。

大松の胸板むないたから、血飛沫ちしぶきが飛び散る。


まった~、仕損しそんじてもうたあ」


山野と大松は、そのままもんどりうって倒れ込んだ。

以蔵は、邪魔をした山野を忌々(いまいま)し気ににらみつけ、あばらに蹴りを入れた。

「こんわりことしが!チョッカイはせられん、うつろう?」

「ぐっ」

またしても骨の折れる音がした。


「きたねえぞ!この土佐っぽが!」

奥沢栄助の怒声どせいが飛ぶ。


しかし沖田総司は、むしろ戦慄せんりつを覚えていた。

確かにこの男は、仏生寺や琴、そして沖田自身のような天賦てんぶの才を持っているわけではない。

ただ、彼は相手を殺すという目的のため、もっとも効率的かつ効果的と思われる手段を実行に移すことに、幾許いくばく躊躇ちゅうちょもなかった。

「こいつは、厄介やっかいな相手だぞ」

彼はつまり、自分たちがつながれている武士道という頸木くびきから、それは旧来の道徳観念を逸脱いつだつすることへの罪悪感と言い換えてもいいが、そうした古い価値観から、解放された存在だった。

岡田以蔵は、沖田が今までに出会ったことがない、ある意味で最も純粋な戦士だった。


ようやく道場に辿たどり着いた沖田は、自分の差料さしりょうを二人の間に投げ入れた。

「お琴さん!」


琴が空中の差料さしりょうに向かって跳躍ちょうやくする。


しかし。


以蔵は沖田が投げた刀の軌道きどうを読んで、

琴の手がそこに届く一点を狙った。


「しまった!」

沖田が叫んだ。


以蔵がせり上げた刀を振り抜くと同時に、

鮮血せんけつが尾を引いて高く舞い散った。



以蔵はニヤリと笑い、

そして、左の肩を押さえた。

「へこすいぜよ…」

そのそでには、赤く血がにじんでいる。



「…どういうことだ?」

沖田は、地面に転がる自分の差料さしりょうと、以蔵の刀傷かたなきずを見比べながらつぶやいた。



「そがなとこに、自分の刀を隠してあったがかよ」

以蔵は、道場の長押なげしを見上げてから、恨めしそうに琴へ視線を戻した。

「あなたみたいな人に、丸腰まるごしで会いに来るなんて、本気で信じてたの?」

琴の手には、サヤを払った刀が握られていた。

その刀身は、以蔵の血を吸ってなまめめかしく光っている。


「これで五分でしょ」

琴が容赦ようしゃなく振り下ろした刃を、

手負いの以蔵はつばで受け止め、

琴の身体ごとね返した。

「…軽いのう滝夜叉姫。わしもそろそろ本気を出すぜよ」


以蔵は、刀が柱や長押なげしに当たるのを警戒して、

打ち込みを突き一本に切り替えた。

はからずも短い脇差しに持ち換えたことがこうそうし、

格段に剣のスピードが上がっている。

しかし、琴は天才的なかんで、

ひらひらとそれを交わした。

「滝夜叉姫、まるでいゆうようじゃ」

以蔵は、肩から血を吹きながらも、

うっとりした目で満面の笑みを浮かべた。


しかし、規格外の剣を使うという意味では、琴も同じだった。

後退しながらグルリと後方に回転した右手が、

そのまま下からり上がって、片手突きに変化する。


「おっと!」


って剣先をけた以蔵は、

すぐさま攻撃に転じようとして、

奇妙な浮遊感とともに琴が視界から掻き消えたことに気づいた。


道場のむね越しに夕焼けの空を飛ぶサギが見える。


脇差わきざしがむなしく空を払った。

鼈甲べっこうかんざしが宙に浮かび、

ざんばらの髪がなびく。

地面に後頭部を打ち付け、

以蔵は、ようやく自分が仰向あおむけに倒れていることを理解した。


「なんでなが??」


とっさに上半身を起こし、

開いたまたの間を見れば、

琴があか襦袢じゅばんすそを踏んでいる。


「まっこと、へこすいぜよ~」

あわてて刀を握り直したが、

琴はもう一方の脚で、脇差しの根元をガッチリと押さえていた。

「ちょっと気安いんじゃない?」

琴は、冷ややかな目で以蔵を見下ろしていた。


途端とたんに以蔵はヒステリックな声で笑い始めた。

「ハハハハハハハ、ヒヒヒヒヒヒヒ。ヒハハハハハハ、HAH、HeeHeeHeeHee、HAHAHAHAHAHAHAHA!!」


二人の様子は、まるでそれぞれが逆の立場にいるかのように見えた。


「ひざまずきなさい」

琴が切先きっさきを突きつけて、冷徹な声で命じると、以蔵は驚くほど素直に従った。

「ひ~ひ…怖いのう」

しかし、涙のあとが残る白塗りのおもてには、

まだ気味の悪い笑みが張り付いている。



ここにきて、ようやく皆が、騒ぎの中心に引き寄せられるように集まってきた。



安藤早太郎は二人に歩み寄り、とぼけた調子で以蔵に尋ねた。

「いやあ、すまんすまん。つい手元が狂っちゃって。ケガはなかったかい?」

地べたに座り込んだ以蔵は、海老反えびぞるように安藤を振り返りニコリと笑う。

「なんちゃじゃない。わしゃ天に愛されゆうき、矢は当たらんのです」

琴は安藤に小さく頭を下げた。

「助かりました」

「しかし妙なところで会うねえ。いや、なに。あんたが時間をかせいでくれたおかげだよ」

安藤は微笑んで、琴に小さくウインクを投げた。


そこへ、子供を壬生寺の浪士にあずけた石井秩いしいいちが駆けつけた。

副長土方歳三の指示で、佐々木愛次郎と松原忠司を護衛にともなっている。

二人が柔術の達人であることを見ても、まさか刃傷沙汰にんじょうざたが起きているとまでは予想していなかったようだ。

少し遅れて、局長代理きょくちょうだいり谷右京たにうきょうも三人に追いついた。

「ありゃ〜、やっちゃってるねえ」

飄然ひょうぜんとした姿勢は変わらず、まるで他人事のように、この惨状を評した。

さらに、副長助勤ふくちょうじょきん平間重助以下、芹沢一派の隊士たちも、この騒ぎを聴きつけて母家から姿を現した。



八木秀二郎だけが、ただ呆然と立ち尽くし、

その腕の中では、まだ加禰カネが小刻みに震えていた。

「あ、ひ、秀二郎さん、おおきに…」

初めて人が斬られるのを目の当たりにして、まだ恐怖で歯の根が合わない様子だった。

「いや、そんな、私はなんも…」

目の前で血を流して倒れる大松と、周囲の狂騒きょうそうを、まるで荒唐無稽こうとうむけいな夢のように感じながら、秀次郎はうわの空で返事をした。

手のひらに感じる加禰カネの体温だけが、わずかに現実とのつながりを感じさせた。



いちは、血を流して倒れる大松を一目ひとめ見るなり、平間たちに向かって叫んだ。

「戸板を!」

沖田はその様子を見て、

「何やってるんだ!まだ危ないから、ここには近づくな」

と制止したが、いちそで襷掛たすきがけしながら、大股に怪我人へ歩み寄った。

「いいえ。ここからは私の領分です。ご配慮は無用に。早く戸板を!」


部外者が屯所とんしょに出入りすることを快く思っていない平間でさえ、このいちの姿には感じ入った。

「おい、戸板だ。佐伯!ボーっと突っ立ってないで早く持ってこい」

「あ、はあ」

佐伯又三郎が、タンカ代わりの戸板を持ってくると、いちは着物に血がべったりと付くのも構わず、大松の頭を抱き起こした。

「どなたか、足の方を持ってください」

佐々木愛次郎が慌てて駆け寄ると、

松原忠司もいちに代わって大松の上半身を支えた。

「なんやねん。ケンカ終わってもうとるがな。つまらんなあ」


いちは、戸板に乗せられて運ばれる大松に寄り添い、声をかけ続けた。

「傷は浅いです。すぐに血を止めますから、お気を確かに!」


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