水茶屋の娘 其之弐
世間話に気を取られていた秀二郎たちは、その時ようやく店先がザワザワと騒がしいのに気が付いた。
土佐弁が聴こえる。
「のう娘さん、わしゃ急いじゅうき。新兵衛に先を越される前に、滝夜叉姫に会わんならん」
男の様子は、どう見ても普通ではなかった。
加禰は、その男に手を握られて思わず叫んだ。
「いや!」
山野八十八は、ほとんど反射的に以蔵へ駆け寄って腕を掴むと、人差し指を立てて相手の顔前に突き立てた。
「おい、やめろ!」
以蔵は目を見開き、山野の顔と突きつけられた人差し指を交互に眺めた。
その表情は奇妙な化粧のせいで、まるで満面の笑みを浮かべているようにも見える。
「あ・あ・いかんちゃ。こん格好を見てみい?おんしゃ、こがな女子のような、か弱い優男に手え上げる気なが?弱い者いじめせられん。ほれ、みな見ゆうき」
山野は本来なら自分が吐くべき台詞を取られて、口を半開きにしたまま固まってしまった。
「わしゃ心配ながよ。若い娘さんが、こがあイカガワしい客筋の店を独りで切り回しゆうがは感心せんき」
以蔵は加禰に肩をすくめてみせた。
「ここにアンタほど如何わしい者などおらんよ」
先ほどの老人がお茶をすすりながら、なおも以蔵の顔をマジマジと眺めて言った。
店にいた客がドッと湧いた。
「いいぞ爺さん!」
以蔵は襦袢の裾をつまんでわざとらしく顔をしかめた。
「…ほうかえ?」
明らかにまだ酔いが抜けていない。
しかも、どうやらこの格好がまんざらでもないらしかった。
やがて山野も我に返った。
「…と、とにかくこの手を離せ!」
「あんたもじゃ。わしゃ人見知りするきねや」
「そっちが先…」
言い終わらないうちに、
以蔵の鋭い足払いが、山野の身体を宙に浮かした。
そのままドサリと地面に叩きつけられ、
そして、這いつくばった山野の右手を、
三枚歯の高下駄が踏みしだく。
「…っ!」
山野は手の甲の骨を砕かれて悶えた。
以蔵は、さも申し訳なさそうに頭を掻いた。
「すまん!大事なお手手が、ちゃがまってもうたかよ。履き慣れん下駄やき、加減を違えてもうた。ちゅうか、え?おまん誰なら?」
加禰が泣きながら山野に駆け寄る。
「お侍さん、お侍さん!」
以蔵は、不満げに唇を尖らせた。
「なんでなが?今、わしが悪者みたいになっちゅうやないろうか?」
辺りはシンと静まり返り、以蔵は自分への憎しみに燃えて殺気立つ新入りの隊士たちを見渡して、小首を傾げた。
秀二郎は、いや、そこに居た皆が、このふざけた道化の内に、隠し果すことの出来ない狂気を見ていた。
「だって、おまんらあ朝廷の御為に働く草莽の志士をしでちゅう(いじめてる)じゃいか。ほりゃあ、ちっくと帝を軽んじ過ぎぜ?」
この都の何処かに、夜ごと天誅と称し、人を斬る物の怪が潜んでいる。
今更ながら、皆がそのことを思い出していた。
ひょっとしたら、この男がそうかも知れない。
大松系斎が腰を浮かせた。
「あの土佐野郎、浪士組にケンカ売ってやがんな!」
八木秀二郎は、葛藤していた。
ケンカに巻き込まれているのは、幼馴染の加禰である。
当然、助けに入るのは自分であるべきだ。
男としての気概を見せる時があるとすれば、今をおいて他にない。
急に「その時」が来て、情けないことに脚が震えるのを感じた。
なにせ、こんな緊迫した現場に居合わせたのは生まれて初めてなのだ。
「クソ!」
なんとか自分を奮い立たせ、一歩を踏み出したところで、秀二郎は何者かに腕を引かれた。
「まて」
それは、先ほどの尾形俊太郎だった。
「なんです!?」
秀二郎と大松は一斉に振り返った。
「やめたまえ」
「尾形さん、あなた、まさか見て見ぬ振りをしろと?」
秀二郎は気色ばんだ。
動揺が広がるなか、この尾形だけは、変わらず茶碗を手に行儀よく背筋を伸ばしている。
「君が行っても、犠牲者が一人増えるだけだ」
「戦う気がないなら、黙っててください」
「私が出て行ったところで、やはり結果は同じだからね」
「そ、それでも武士ですか!もういいです!」
秀二郎が声を荒げると、尾形は、ゆっくり目を合せた。
「つまり、こういうことですか?貴方は、あの娘を助けたいんだね?」
「…今まで何を見て、何を聞いてたんです」
「解ってないのは貴方です。それは匹夫の勇というものだ」
「かもしれんが、何もせんよりマシです!」
尾形は、秀二郎の腕をさらにグイと引き寄せ、無理やり隣に座らせた。
それは先ほどからの消極的な言動からは思いもよらない力だった。
「…そうだな、四人もいれば、五分にやれるかもしれない」
ようやく尾形は同調の兆しを見せた。
「じゃ、じゃあ…?」
秀二郎が、大松の顔を伺う。
「手が足りない。彼だけではダメだ」
尾形はそう断じて、少し離れた席に立っている男を指名した。
「ああ君、奥沢くん。見てないで手伝いたまえ」
「わ、私ですか?」
奥沢と呼ばれた男が、なぜ自分の名を知られているのだろうと不思議そうに自分の顔を指した。
彼は、後、浪士組伍長となる手練れである。
どうやら尾形は、考試の場で候補者の技量や名前をすべて記憶しているらしかった。
「いいですか?それとなく彼を三方から取り囲む。まずは私が彼を説得しよう。話し合いで事が納まれば、無論それに越したことはない。ダメならば、私が正面から初太刀を浴びせる。もし私が斬られるようなことがあれば、その隙に三人で後ろから斬りかかりたまえ。分かりましたね?」
彼は、生に対する執着などまるでないように、淡々と策を授けた。
秀二郎は耳を疑った。
「…な、なんでそうなるんですか?私があなたに助太刀を強いたんです。もちろん私が矢面に立ちますよ!」
尾形は、スッと立ち上がった。
「ちがうな。何故ならこれは、義侠心や道義心の話ではなく、蓋然性の問題だからだ。私なら彼に敵わないまでも隙を作るくらいのことはできる」
「おかしな人やな…でも見縊らんといてくださいよ。これでも剣の腕には自信があります」
秀二郎は、精いっぱいの虚勢を張った。
尾形は初めて少し微笑んだ。
「その意気だ。だが、ここは年長者に譲りたまえ。あの男は強いぞ」
尾形俊太郎-オガタシュンタロウ‐
のち、新選組の諸士取調兼監察及び文学師範として近藤勇のブレーンの中核を担う。
議論好きと言われる肥後人にしては珍しく物静かで目立つのを嫌う性格だが、政治向きの用件では能力を発揮し、近藤勇の出張などには常に影のように付き従った。
一方以蔵は、山野にすがる加禰を無理やり引き剥がした。
「そいたら娘さん、ちくと屯所へ案内しとおせ」
女将もようやく店先の様子がおかしいことに感づいて表に出てきたものの、ただ狼狽えるほか、どうすることも出来ない。
「か、加禰…」
加禰は怯えた眼で八重に訴えかけながら、そのまま引き摺られるように以蔵と屯所の方へ消えていった。
「追いましょう」
尾形が皆を促した。
今回のサブタイトル、「イパネマの娘」みたいでちょっと気に入ってます。どうでもいいですが。
この大和屋という水茶屋は、おそらく壬生寺の裏にあった壬生遊郭の遊女屋ではないかというような話もあるんですが、まあその通りにしちゃうとなんだかウェットな話になりそうなので、ただのお茶屋さんてことにしました。




