水茶屋の娘 其之壱
壬生寺の裏に、やまと屋という水茶屋があった。
水茶屋というのは、今で云う喫茶店のようなものである。
八重という女将が切り盛りして、一人娘の加禰が手伝いで給仕をやっている。
二人とも美人で、壬生村ではちょっとした人気店だ。
浪士組の隊士たちもお金があるときはよく通ったし、以前、中沢琴と清河八郎が最後の別れを果たしたのも此処だった。
そして今日、小さな店はいつにも増して混雑していた。
それは、寺の境内で行われている浪士組の入隊試験、いわゆる考試のせいだった。
浪士組副長土方歳三のお眼鏡に敵い合格した者は、隊士の島田魁から居残るように言い渡される。
のちほど、近藤局長からなにやら薫陶を授かるとのことだ。
だが梅雨に入ってからというもの、連日の雨で気軽に腰を降ろせる場所も見当たらない。
そこで彼らは考試が終わるまでの間、手近な店でお茶でも飲みながら時間を潰そうと考え、おかげで看板娘の加禰は朝からずっと忙しく動き回っている訳だった。
そうしたところへ、剣術の稽古を終えた八木家の長男秀二郎が通りかかった。
ご近所の加禰と秀二郎は当然顔見知りである。
「お加禰ちゃん、えらい繁盛やなあ」
「あ、秀二郎はん。こんにちは」
「なんやこの騒ぎは」
秀二郎はむさ苦しい男客ばかりが群れている店を見渡して顔をしかめた。
「あんたとこの浪士組のひとらが、境内で隊士募集する日はいっつもこんなんやで?此処に来はるお客さんは採用された人みたい。儲けさせてもろてます」
「それでも、残ったのはたったこれだけかあ」
あまりの忙しさに正直それほど有難くもなかった加禰は、秀二郎の思いがけない答えに目をむいた。
「たったて…お昼からずっと満席なんやけど!」
「ま、多少なりともこの村のお役に立っとるのやったら、父上も浮かばれるわ」
「また、そんなイケズ言うて」
加禰は空のお盆を手前に抱えて、悪戯っぽく顔をしかめてみせた。
「お姉ちゃん、お茶!」
「はいはあい!」
また浪士組の新入隊士からお呼びが掛かり、小走りに駆けていく加禰を秀二郎は笑って見送ると、そのまま立ち去ろうとしたが、ふと心変りしたように立ち止まって、もう一度客を見渡した。
それから、自分と歳が近そうな青年を見つけて歩み寄った。
「あの。ちょっとええですか?」
秀二郎が声をかけたのは、奇しくも先ほど合格を言い渡された山野八十八だった。
「はい?」
山野は怪訝な顔で秀二郎を見上げた。
「いきなり不躾な質問ですけど、なんで浪士組に入ろうなんて気にならはったんですか?」
「はあ、あなたは?」
当然の疑問だった。
「あ、いや、すんません。私は浪士組が屯所を構えたはる八木の家の愚息です」
「ああ、あのお屋敷の。これはこれは、私、山野八十八と申す者です。お世話になります」
山野八十八と、その周りに座っていた三人ほどの隊士たちが、一斉に立ち上がって名乗りはじめたので、秀二郎は慌てて手を振った。
「いやいやいや!私はただの大家の息子なんですから、そんな畏まらんといて下さい!」
山野は何か想像をめぐらすように、如何にも人の好さそう顔の正面で手を合わせた。
「ああ、隊士の皆さんとも毎日顔を合せるわけですから、それは当然の疑問かもしれませんね。けど、どうかなあ…そうあらたまって問われると答えに詰まりますね。私の場合、実家は加州候にお仕えしてるのですが、私自身は家督を継ぐ立場にある訳でもなし、こんな時勢に金沢の片田舎に篭って無為にこの若さを浪費するより、何某か人の役に立てたいなんてことをね」
隣に座っていた大松系斎という同年配の男もうなずいた。
「右に同じですよ。ま、ここに居られる方々の多くは同じような境遇じゃないでしょうか」
秀二郎は、ますます分からないといった風に腕組みをして眉間にシワを寄せた。
「だからって、なにもこんな辛い仕事選ばんでも。山野さんはえらい男前やし、止めといた方がええ思いますがねえ」
山野は頭を掻いた。
「そりゃどうも。確かに我々は世の中の気分(雰囲気)てやつに感化されただけかもしれませんが、平時であれば居候で一生を終える身ですから、こんな時代に生まれたのは何か意味があるかもしれないとか、そういう風に思いたいんですよ」
「それに、もう脱藩して今さら後にも引けないし。ハハハ」
大松は山野と顔を見合わせて笑ったが、秀二郎の反応は極めて素っ気ない。
「当節の流行り云うやつですかねえ」
「あなたはひょっとしてご嫡男ですか?」
山野が問い返した。
秀二郎は驚いて自分の顔を指した。
「あ、私ですか?ええまあ、と言っても田舎の郷士ですが」
「そりゃ、理解できないかもなぁ。長男には家を守り、お役目や家業を継ぐって言う立派な仕事があるわけですから」
秀二郎は自嘲気味に笑って手をヒラヒラと振った。
「そやのうて、私には皆さんみたいに志すもんがないだけですわ」
「志なんてのは、存外自分でも気づかない間に心の内に育っていて、ふとしたきっかけから気づかされたりするもんですよ」
「それは私が家業を継ぐ時ってことですか?」
「いや、元服とか、家督相続とか、そういうのじゃなくて、いやでも大人の判断を迫られる時があるんです。その時が来れば、分かります」
「そうかなあ。いや、きっと私には分からんのやないかなあ」
これまで黙ってこのやり取りを聞いていた年の頃二十四、五のもう一人の隊士が、秀二郎を横目に無言で笑みを浮かべている。
秀二郎はそこに何か見下したような含みを感じ取ってムッとした。
「なにがおかしいんですか?」
「いや、べつに。己れの分を弁えるのは悪い事じゃない。むしろ美徳と言っていいでしょう」
「な…!」
多少は謙遜も混じった言葉を全て鵜呑みにされて、秀二郎の自尊心はいたく傷ついた。
もっとも男に他意はないらしく、いかにも几帳面な仕草で茶碗を床机に置くと恭しく頭を垂れた。
「私は尾形俊太郎と言います。今後ともよろしくお願いいたします」
だが、山野の言った「その時」は、案外すぐにやってきた。
「お姉ちゃん、ここにおるがは浪士組の皆さんやないろうか?」
慌ただしく配膳に追われていた看板娘の加禰は、背後からこの辺りでは聞き慣れないお国言葉で声を掛けられ、振り向きざま凍り付いた。
そこに立っていたのは、なんとも異様な風体の若い男だった。
髪に鼈甲の櫛を差し、顔にはデタラメに白粉を塗りたくって、さらにデタラメを重ねるように、前歯の突き出た口に耳まで避けるような口紅を引いている。
そして、着ているのは花魁のような赤い襦袢と高下駄だけだった。
「なな、なんなんだい?あのバケモノは?」
浪士たちに混じってお茶を飲んでいた老人が、思わず心の内を声に出してしまった。
「あの…?」
加禰は、その頭の天辺から爪先までを呆然と眺め、ようやくそれだけ返事するのが精いっぱいだった。
それはもちろん、土井鉄蔵が輪違屋の花君太夫と一之天神に弄ばれた成れの果ての姿だった。
すなわち土佐の“人斬り”岡田以蔵である。
「じつはのう、娘さん。わしはこの辺で想い人を探しゆうが」
以蔵は何事もなかったかのように加禰に切り出した。
「おまんもえろう可愛えが、わしの滝夜叉姫は絶世の美女じゃ。わしゃ一目惚れしてしもうての」
「滝夜叉姫…ですか?」
「ほうじゃ。名前も知らんき、わしが付けた名じゃ。姓は中沢ち聞いちゅう」
「この村に中沢という家はなかったと思いますが」
「それがの、わしゃ大仏寺で壬生浪と居るとこを見ちゅう。やき、所縁のお人にかあらん」




