魔窟にて 其之参
以蔵は琴の心中を見透かすように、じっと眼を覗き込んだ。
「そりゃあ……秘密ぜよ」
琴も、以蔵から話を聴きだせるとは思っていない。
この男は、純粋な殺人者だ。
それを言ったのが誰にせよ、きっともうこの男に殺されている。
「今となっては、あの日、あの船宿で、どういったやり取りがあったか知る者は少ない」
安積は項垂れた。
清河八郎はきっと、安積五郎を田中河内之助に引き合わせることで、伏見義挙 の軍資金の在り処へと導くつもりだったのだ。
しかし、田中河内之介の死によって、その手掛かりは途絶えてしまった。
「どういたもんかのう」
以蔵が、まるで琴と安積の気持ちを代弁するようにつぶやいた。
しかし、こればかりはどうなるものでもなかった。
「安積さんは、これからどうされるのですか」
琴は安積に尋ねた。
安積はしばらく黙って考え込んだ。
「…いまさら後へは引けない。清河のようにはいかんにせよ、藤本鉄石殿を頼り攘夷親征の一助になりたいと思います」
琴は顔色を変えた。
「攘夷親征って…まさか、武力行使の旗頭に帝を引っ張り出すつもりですか?」
藤本鉄石は、岡田以蔵らに目明しの文吉殺害を指示した張本人で、吉村と同じく油問屋八幡屋を脅していることを、琴と原田左之助が突き止めていた。
安積はしゃべり過ぎたという顔をした。
「徳川将軍が動かぬのであれば、致し方なかろう」
「あなたの言う、その攘夷親征の首魁は土佐の吉村寅太郎ですね。彼に顔を繋いでもらうつもりでここに?」
琴は博打に興じる男たちを振り返った。
琴のもうひとつの使命は、ここに吉村寅太郎が潜んでいるか見極めることにある。
安積は目を眇めた。
「その名も、清河から聞いたのですか?お琴さん、あんたどこまで知ってるんだ?」
「彼が寺田屋事件の発端になった伏見義挙の企てに一枚嚙んでいたこと。計画が失敗に終わった後、土佐で投獄されたけど、今は許されて京の町を大手を振って歩いていること。それに、木屋町に隠れていたことも」
安積はもう十分だという風に、両方の手のひらを挙げた。
「武市半平太と袂を別ってからの彼は、住処を転々としている。ここにはいないようだ」
「そうか。まだ吉村がいる…」
琴は独り言のようにつぶやいた。
「え?」
「あ、いえ。あの、安積さん、差し出がましいようですが…」
琴は安積の無謀な決断を、みすみす見逃す気になれなかった。
「言わんでください。もう決めたことです。これ以上は、私からお琴さんに話すことはない」
「でも、ご公儀だって甘くはありません。あなたも清河さんのご友人なら、それがどんなに…」
安積は無言で首を横に振り、ふと微笑んだ。
「…あんたは、まるでお蓮さんのようだ。清河が気に入ったのもうなずける」
「そのひとは清河さんの…」
それは清河の妻の名だった。
安積はお蓮とも親しかったのだ。
「ああ。俺たちが巻き添えにして死なせた。もうそんなのは御免だ。あんたはまだ若い。この件からは手を引きなさい」
「端からそんな企みに首を突っ込む気はありません」
「なら、それでいい」
琴はまたしても自分の無力さを思い知らされた。
「…私はそろそろお暇します」
そのとき、琴の背後にある玄関に人の気配がした。
扉は先ほど安積が開けたままになっている。
琴は、背後の人物に以蔵が目配せを送った気がして、振り返ろうとしたが、果たせなかった。
「待ちや!」
突然以蔵の放った殺気に、目を逸らすことが出来なくなったのだ。
斬られる、と感じた。
琴はゴクリと唾を飲んだ。
「まだなにか?」
「…姉ちゃん、あんたぁ、味方ね?」
「私はあなたたちの諍いとは関係ない。清河さんは古い知り合いだから、義理をはたしただけ。もう故郷へ帰って普通の暮らしをするの」
それは、半分本心だった。
身を翻すと、そこにはもう誰もいなかった。
その時、琴は以蔵が刀を持っていなかったことにようやく思い当たった。
琴が出ていくと、早瀬がニヤニヤしながら以蔵の肩に手を置いた。
「まっこと、ええ女じゃ。傾城の美女ゆうがは、かくあらんてとこかえ。おまんが、あの女を手篭めにしやせんろうかとヒヤヒヤしよったぜ」
以蔵は壁に貼ってあったおどろおどろしい浮世絵を、バンと平手で叩いた。
「傾城?ケ!アホ抜かせ!ありゃあ、この滝夜叉姫じゃ。わしとおんなし種類の人間ぜ。背中見せただけで、首かっ切られるわえ」
そこに描かれた滝夜叉姫とは平将門の娘で、朝廷の転覆を目論んだ妖術遣いとされている。
「まーた、ほがなてんごう(冗談)言うて…」
笑いかけた早瀬は、以蔵の顔を見て息を飲んだ。
「…ありゃあ、生かしとかん方がええちや。田中新兵衛あたりに先を越される前に仕留めんといかんにゃあ」
以蔵の眼には暗い炎が揺らめいている。
「まちや。どういう意味ぜ?」
「人を斬るんに、いちいち理由が必要ながか。いつもは武市さんがもっともらしい大義名分を考えちゅうき、わしゃあ、ただ斬りゃあええがじゃ。けんど、ものごとは理屈だけで割り切れんこともあるろう。あの女にゃ物の怪がついちゅう」
遠く六角堂から九つの鐘の淡い音色が響くころ、琴がようやく玄関から姿を現した。
建物を出ると、近藤が先ほど別れた辻から忙しなく手招きをしている。
「もう少しで踏み込むとこだったぜ。で?」
「ごめんなさい。目つきの悪い連中が何人かいた。多分、土佐の浪人だと思う。見たところ、下っ端ばかりで吉村らしき男はいなかった」
ところが近藤は、角を曲がった先の方角に、クイと頭を振った。
「いや、どうやらあいつらが怪しい」
大和大路を行き交う人々の中、急ぎ足で歩く三人の侍の背中が見える。
「あれは?」
「君が中に入ったあと、あの三人は瓦屋の入口まで行って、慌てて引き返した。中の様子がいつもと違うと勘付いたのかもしれん」
「やはり、あれは気のせいじゃなかった…」
琴は人斬り以蔵の目配せを思い出した。
「後をつけましょ」
「勿論だ」
二人が小走りに間を詰めると、三人の侍は仁王門前の名物大仏餅屋の入口に吸い込まれるように入っていった。
「気づかれたかもしれん。行こう」
餅屋の前まで来たとき、近藤が琴の袖を引いた。
「あの餅屋がグルなら、裏の木戸口から逃がすかも知れん」
それは近頃の京の町では珍しくないことだった。
「じゃあ、私は裏に回ります」
行こうとする琴の肩を近藤が掴んだ。
「出てきたところを捕まえる。一人で大丈夫か?」
相手は三人だ。
しかし琴は事も無げに微笑んだ。
「他に手段が?近藤先生こそ、腕は鈍ってないでしょうね?」




