千里を駆ける天馬 其之弐
「わしはそうは思わんぜ。お上は腰抜けやが、長州の心意気はまっこと天晴じゃ」
那須は赤ら顔で反論した。
かなり酒が回っているように見える。
「ほうかのう?お上と長州がほうやって脚の引っ張り合いをしちゅうがは、アメリカやイギリスの思う壺やないがか?」
「ほりゃあ、ようだい(屁理屈)じゃ」
琴には坂本の理屈がもっともに思えた。
しかし坂本は那須を言い負かすようなことはせず、ただ笑い飛ばした。
「なんの!那須さんも、一端のいごっそうじゃいか!さあさあ、一献」
那須の盃を満たすと、今度は琴にも銚子を突き出す。
「ほれ、おまんも飲みや。今日は無礼講じゃ」
琴はニコリともせずに盃を受けた。
そこへ、浪士の1人が膝で擦り寄ってきて、
「坂本さん、独り占めはズルいぜよ!傾城、わしらにも酌をさせとおせ」
と、戯れに琴の袂に手を差し入れた。
「われ、ちっくとほげちゃあせんかよ」
那須が見兼ねてたしなめたが、琴は眉一つ動かさない。
と、
「いてててててて!」
突然、その浪士が悲鳴を上げた。
琴は盃を持ったまま、もう一方の手で不埒な男の腕を捻り上げていた。
「おほっ!一滴も溢れとりゃせんぜ」
坂本は、妙な風に感心して、琴の盃に見入っている。
琴は一息に酒を飲み干し、掴んだ腕を乱暴に払った。
「お侍様、是非お相伴に与りたいところでしたのに、私たちの腕は、あまり反りが合わないようですねえ」
「なんじゃと!」
浪士はものすごい形相で琴を睨み据えている。
坂本は取り成すように中に入り、そして大声で笑った。
「あはははははは!まっことハチキンじゃあ!けんど、めった(困った)ねや。わしらぁ、どういたら、あんたみたいなええ女と寝られるがよ?」
「そうですねえ。アメリカ船の一つも沈めてご覧あそばせ。皆さまが本懐を遂げて凱旋なされば、楼を挙げて歓待させていただきましょう」
琴はそう言うと、同意を求めるように花香太夫に視線を遣った。
「やり過ぎや」
花香は眉を潜め、唇の動きだけでそう伝えた。
さすがの花香も、琴の高飛車な口振りにはハラハラし通しだった。
坂本は、話題を変えるように琴の背中をポンと叩いた。
「気に入った!おまん、よさこいは知っちゅうかえ?」
「ごめんなさい。不勉強で」
「よし!ほんなら、そん三味線貸しとうせ」
坂本は鹿恋女郎の三味線を取り上げ、
慣れない手つきでかき鳴らしながら、朗々と唄い始めた。
「土佐の高知の はりまや橋で
坊さんかんざし 買うを見た
よさこい よさこい」
浪士たちは、みな手を叩いて一緒に歌いだした。
「御畳瀬見せましょ 浦戸を開けて
月の名所は 桂浜
よさこい よさこい
言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ
潮吹く魚が 泳ぎより
よさこい よさこい…」
坂本は笑いながら、三味線を鹿恋に譲り、琴の隣に戻ってまた酒を煽った。
歌は賑やかに続いている。
「さっきはすまんかったのう…」
坂本はボソリと謝った。
「いえ」
「わしらぁ、田舎もんじゃき。みなには、おまんの皮肉も通じとらんがよ」
先ほどのアメリカ船云々の話のことだろうか。
「そんなつもりでは…」
琴は少し気後れした。
「ええがじゃ、分かっちゅう。…どいつもこいつも。あの大砲と同じくらい古臭い理屈に囚わりゆう。こん国はすすけて、汚れきっちょる」
坂本は、琴にしか聞きとれないような声で呟き、行灯の火を見つめながらしばし黙り込んだ。
「あの…」
「わしゃ決めたぜよ。日本を、こん国を洗濯しちゃるき」
その決意表明がどういう意味なのか、琴には分からなかった。
坂本自身、誰に言ったわけでもなかったのかも知れない。
琴は、不思議な感覚に囚われていた。
坂本を見て、その言葉を聞くほどに、なぜかあの清河八郎を連想してしまう。
あの暗く残酷な業を背負った清河と、この眩しい理想を掲げる坂本には、一見、何の共通点もないように思えるのに。
しかし、清河八郎と坂本龍馬は、写真のネガとポジのようなものなのかもしれない。
二人は革命という同じゴールを見据え、同じ熱量を以て、例えば、マルコムXとマーティン・ルーサー・キングのように、まったく正反対のアプローチを試みたに過ぎないのではないだろうか。
「那須さん、おまん、お父上には、ちゃんと手紙書いとるがかえ?」
「いや、筆不精でいかんちゃ」
歌が終わると、坂本と那須は何事もなかったかのように、また話し始めた。
「平井さんや間崎さんのこともあるき。わしらは国事に尽くすと決めたその日から明日をも知れん命じゃ。せめて今何処で何しゆうがか知らせちゃらんといかんちゃ」
坂本の口から出た名前の二人は、実質的な藩主山内容堂に行き過ぎた攘夷活動を咎められ、投獄されていた。
「…そうやねゃ」
「お二人は、お国に御内儀が?」
話しが故郷の土佐に及んだので、琴は酌をしながら尋ねてみた。
「おうおう、那須さんは国許に別嬪の嫁さんが待っちゅうろう?」
坂本が冷やかした。
「あやかしい事を言いなや。為代とは、もう会えん覚悟はできちゅうき。事が成るまで、嫁さんが居ろうが居るまいが、関係ない。皆一緒クタに瓦屋の座敷で雑魚寝しちゅう」
「瓦屋って?」
琴は水を向けた。
「おう、わしらあ、大仏寺の向かいにある瓦屋の御隠居に間借りしちゅうがよ」
酔いが回ってきたせいか、口が軽くなっているらしい。
「ええ処やないどすか。秋には紅葉が綺麗やし」
花香は、場の雰囲気が落ち着いたことにホッとした様子で、その光景を思い浮かべるようにうなずいた。
「なんちゃじゃないが」
那須は嫌な顔をした。
花香が小首を傾げて不思議な顔をすると、坂本は手を打って笑った。
「これがまたケッサクじゃき。ええ歳した男衆が、こんまい部屋にスシ詰めにされてゴロゴロしちゅうち、たまるか。ほりゃもう臭うてかなわん」
おどけて、鼻をつまんで見せる。
「会津も、薩摩も、長州も、此方に来られる若いお武家様やご浪人には、同じような暮らしをされている方が大勢いらっしゃいますけどね」
琴が水を差すようにボソリと呟いた。
「なんや?わしらぁは報国の志を持ってやっちゅうがよ。あがなへこすい奴らと一緒にしな」
那須が聞きとがめるのを見て、花香がまた引っ掻き回すつもりかと慌ててたしなめる。
「これ!明里」
「まあまあ、ええじゃいか那須さん」
坂本の方も那須をなだめた。
琴は謝ろうともせず、睨みつける花香から、床の間に生けてある躑躅と花水木に視線を逸らせた。
坂本はそんな琴の横顔をじっと見つめた。
「おまんの言いゆうことも解るき。わしらのほんまの敵は、アメリカじゃ!イギリスじゃ!フランスじゃ!ほいじゃき、いま辛い想いをしゆう皆が、それを分かってくれよったら、この国は、なんらあなるき。のう?」
琴はまだ納得した訳ではなかったが、坂本を見て小さくうなずいた。
拗ねた少女のように、目には薄っすらと涙を浮かべている。
「まっこと、大きな眼ぇやにゃあ!」
坂本龍馬はそう言って、また笑った。




