大望の残像 其之壱
近藤勇たちが京に戻った日に話を戻す。
夜も更け、角屋での乱痴気騒ぎもお開きに近づいた頃。
天神の明里は浪士組副長山南敬介に耳打ちした。
「西門の脇にある住吉神社で」
遊里の逢引き場所としてはいささか風変りだが、
山南は、無言で明里の眼を見返しただけだった。
やがて宴も果て、皆は壬生の屯所に帰っていった。
丑ノ刻(2:00am)。
雨の匂い。
夜の街、島原の通りにも人気が絶える頃。
明里、すなわち中沢琴は、提灯も持たず、一人遊郭の隅にある神社の鳥居をくぐった。
拝殿の脇に建つ石灯篭の陰に、傘を差す男が佇んでいる。
「山南さん?」
琴はゆっくりと歩み寄った。
「山南なら来ないぜ?」
予期せぬ声がして、琴の足が止まった。
姿を現したのは、もう一人の副長、土方歳三だった。
「土方さん」
「あんたが山南に耳打ちしたのが聞こえたんでな」
「…気づいてたの?」
それは遊女、明里としての質問ではなかった。
土方の口振りから、琴は自分の正体が知られていると悟っていた。
「あんな唐変木どもと一緒にしてもらっちゃ心外だな。女についちゃ見る目はある。それに、何だかんだで、あんたとの付き合いも古いからな」
「ビックリね。私のこと、ちゃんと女に見えてたなんて。牡牛か何かと勘違いされてるんだと思ってた」
琴は皮肉を込めて微笑んだ。
「ああ。馬鍬を引っ張る力があるからといって、その二の腕に色気がないとは限らん。だから、あんたが自信家で、自分の見た目を鼻にかけてるのも、よおく存じ上げてるぜ?…にしても、島原の天神とは恐れ入ったがな」
土方は肩をすくめた。
「大きなお世話なんだけど。さっさと本題に入れば?」
「で、思い出したんだ。そういえば、あんたには借りがあったってな」
「若鶴太夫のことなら、礼には及ばないわ」
「そんなんじゃねえ。古い話だが、江戸を出る前、俺が女と手を切るのに、許嫁のフリをしてもらったことがあったよな」
琴はしばらく考えるふりをして、顔をしかめた。
「女?ああ、そうね、正確には”あちこちに作った女” と手を切るのに手を貸したかも。思い出したくもないけど」
「いちいち癇に触る女だな。まあ今夜はそのお礼と言っちゃなんだが、お節介を焼きに来た」
琴は土方が用件を切り出すより先に、諦めたように小さく頭を振った。
「…山南さんは、やはり許してくれなかったのね。わたし、酷いことを言ったから」
「そう結論を急ぐなよ。何を言ったのかは知らんが、山南なら輪違屋へ行ったぜ?あんたを取り返す気じゃねえのか」
「もう!バカなことを」
慌てて輪違屋へ踵を返そうとする琴の腕を土方が掴んだ。
琴のぽっくり下駄が飛沫を上げる。
「待てよ!いいから聞け。事情が変わったんだ」
いつもの皮肉が混じった口調とは少し様子が違う。
琴は土方の顔をマジマジと見返して、その続きを待った。
「清河が斬られた」
「…」
琴は何も答えなかったが、
その眼を見れば、土方には充分だった。
「そうか。知ってたんだな」
「…ええ。じゃあやっぱり本当だったのね」
「俺たちも詳しくは知らん。誰が殺ったのか、あんたは知ってるのか」
「分からないけど、知る限り、少なくとも長州の仕業じゃない」
「とすれば、やはりご公儀の筋…佐々木只三郎か」
琴は威嚇するように土方を睨んだ。
「ご満足かしら?」
「ふん、ま、因果応報ってとこだな。稀代の奸物として相応わしい最期には違いねえ」
「やめて。『稀代の奸物』なんて称号は、あの人なら地獄で手を打って喜ぶだけ」
「…じゃあ、何故だ」
土方は琴の眼をまっすぐ見据えて尋ねた。
「え?」
「清河の仕事から手を引くにせよ、仇を討つ気にせよ、あんたが京にいる意味はもうないはずだ。それを知った上で、まだこっちに残るのは何故だと訊いてる」
「…」琴は言葉に詰まった。
土方は人差し指で琴の顎の先をクイと持ち上げ、顔を寄せた。
「別に答えなくていいが、詰まるところ、あんたは山南の側に残る大義名分が欲しいのさ。俺が山南に話をつけてやるよ」
琴は間近に迫る土方の顔から眼を逸らし、苦笑した。
「清河と同じことを言うのね。どういう魂胆?」
「感謝はしなくていい。俺の得にもなる話だ。あの時のお返しに、今度は俺が嫌われ役を買ってやるよ」
同じ頃、
山南敬介は輪違屋に乗り込んでいた。
狭い島原のこと、角屋からは、ほんの二町(118m)足らずである。
山南は玄関の格子戸を叩き、驚いて出てきた下男に寝ている主人を起こさせた。
ずいぶん長い間そこで待たされたものの、きちんと羽織に着替えて出てきた輪違屋主人善助は、普段通り穏やかに応対した。
「おこしやす。取り次いだ下男の聞き違いやおへんのどしたら、浪士組の山南副長様どすな。そやけど、はて、わたしにはその名に聞き覚えがおへん」
「ああ。ここには初めて来る」
山南はぶっきらぼうに答えた。
「そしたら、その山南様が、こんな時間になんの御用どすか」
「主人、身請けにはいくら必要だ」
唐突な質問に、善助はわずかに眉をひそめた。
「なんどす?」
「いいから教えたまえ」
善助は目を伏せて、山南の切羽詰まった表情から視線を外し、小さく微笑んだ。
「で?誰を身請けしたいんどす」
山南はめずらしく狼狽した。
「え…あ、いや、ここに居るお琴…いや、天神の明里だ」
「ははあ。山南様は天神の馴染みという訳どすな。…それとも、恋人と言い換えた方がよろしおすか」
「なんでもいい。いくらだ」
輪違屋は可笑しそうに笑った。
「身請け…身請けねえ」
「何がおかしい」
山南がさらに険しい表情で迫る。
「ほんまなら、タダでも引き取って欲しいとこどすけど、いや…まあ、あれだけ極上の玉や。身代金の相場なら500両ゆうとこどすかいなあ」
本来、身代金とは、文字通り遊女を身請けするときの代金である。
「ご…」
山南は絶句した。
しかし、輪違屋の立場から見れば、見知らぬ女が押しかけ同然で天神に納まり、
数日後には、みすぼらしい浪人が明け方に怒鳴り込んできて、その女を返せと騒ぎ立てるなど、これではまるで美人局のやり口で、迷惑もいいところである。
少々脅しをかけてやるくらいのことは許されて然るべきだろう。
「寛政の頃、お上から芸妓の身代金は500両に止めるよう妓楼に御触れがおしてなあ。けど、もっと昔、吉原の花魁瀬川は千五百両の値がついたと言いますさかい、容色だけならあの娘にはそれくらいの値打ちはおすやろ」
「無茶な」
青白い顔で歯がみする山南を、善助は玄関から見下ろした。
「ええ、問われたから答えたまで。失礼ながら一介のご浪人に払える金やおへんなあ。…よろしおす、二十両で手を打ちましょう。まあ、うちとこも着物や簪やゆうて、衣装代にはそれなりのお金は掛けてますさかい」
山南は当惑した。
「どういうことだ?いや、それでも私には大金だが…何故だ?」
「私の口から訳は申せまへんな。山南様がほんまにあの娘のええ人なら、直接お聴きやす」
山南としてはもう善助の条件を飲むほかなかった。
「わかった…主人、その言葉に嘘はないな」
「ええ。二十両、耳を揃えてくれはったら証文を差し上げましょう」
「なんとかしよう」
とは言ったものの、今のところ何の当てもないが正直なところだ。
「そない難しい顔せんでもよろしおすやろ。あの娘は、この数日で五十両からのお金を稼ぎ出したんやさかい」
「え?」
山南は耳を疑った。




