Don Quijote Pt.4
その頃、
中沢琴と安藤早太郎は、京街道を北上して守口宿に差し掛かろうとしていた。
この辺りは、文禄時代に秀吉が築いた堤防の上を街道が走っており、美しい田園風景が見渡せる。
「平和なもんだねえ」
そこには黒船が来るまえと何も変わらない日常があった。
水田の雑草をとる農夫たち。
家々から立ち上る、飯を炊ぐ煙。
安藤は歩きながら、愛おしそうにそれを眺めている。
「だがこの調子じゃ下手すると枚方辺りで宿をとらにゃならんな」
琴は安藤の横顔をじっと見つめた。
「なんだよ?ここ数年、精進料理しか食べてないから、変な気は起こさないってば」
「…いえ。あなたみたいな人がなぜ浪士組なんかに入るのかと思って」
安藤は目を閉じて微笑み、肩をすくめた。
「変かい?見ての通り、仏門に入ってたんだが、ほとほと嫌気が差してね。歳を食うと、知りたくもないような事を知っちまったり、見たくもないものが見えちまったりするもんさ。坊主どもは、自分の立場もはっきりさせないで、ご公儀(幕府)や攘夷派のやることにいちいち文句をつけるばかり。この数年、寺で学んで分かった事と言やあ、本願寺が東と西に分かれて200年もケンカしてんのに、挙国一致だとか公武一和なんてお伽噺を信じろなんて、どだい無理な相談ってことくらいだな」
その言葉は琴の胸をチクリと刺した。
弟良之助と清河八郎、山南敬介と桂小五郎、どっちつかずの個人的な動機で、この国の行く末に関わる重大事に干渉することへの罪悪感が頭をもたげる。
「でも、私にはこの争いが早く終わるのを祈ることしかできない」
「そんなことないだろ。あんた強いじゃない」
達人は達人を知るという。
安藤には琴と仏生寺の強さが、どれほどの研鑽に裏打ちされたものかが分かっていた。
「刀を振り回すのが上手いからって、それが何になるっていうの?ましてや私は女です」
琴は自嘲的に笑った。
「知ってるかい?人は死んだ後も戒名ってやつで位付けされるんだ。仏さんは衆生を均しく救ったりはしないのさ。だから、神様や仏様に手を合わしてるヒマがあったら、自分で何とかしなきゃな。そしたら、ほんの少しでも何かが変わる。それが良いことか悪いことかなんてのは、死んだ後で誰かが決めることだ」
「…ええ。そうかもしれない」
琴は、もう少し京でもがいてみようと思い直して、自分に言い聞かせるように呟いた。
「今は友人として最後の務めを果たすだけ」
だが、そうするには、もっと切迫した問題が目の前に横たわっている。
長期戦を覚悟した琴は、小寅の好意に甘えて、島原の揚屋「角屋」を訪ねてみようと決めた。
夜の四つ(21:00)。
ふたたび船宿、京屋忠兵衛宅。
常安橋の会所に詰めていた隊士たちも、すでに戻っている。
食事も終わり、隊士たちが部屋でダラダラ過ごしているところへ、
ほろ酔いの芹沢鴨が鼈甲の櫛を手にフラリと帰ってきた。
「早いお帰りだな」
じっとりと見つめる平間重助に対して、芹沢はうるさそうに手を払う仕草で応えると、襖を取っ払った大部屋に散らばる隊士たちの中から、沖田総司を目ざとく見つけ出した。
「沖田あ!結局、俺が会所の前のうんこ踏んじまったぞ!どうしてくれんだテメエ!」
土方歳三と碁を打っていた沖田は胡坐をかいたまま振り返った。
「知りませんよ、そんなの!…ん?それなんです?」
芹沢は手にした櫛をもてあそびながらニヤリと笑う。
「あ、これか?お梅にちょっとな」
沖田は急に何か思い出したように土方の顔を見た。
「あーっ!そういえば、結局何にもお土産買ってないや」
平間がイライラした様子で芹沢の肩を後ろから掴んだ。
「仏生寺さん来てたが、待ちきれなくて帰ったぞ」
芹沢は、肩越しに視線を流した。
「大坂に?…なんか言ってたか」
「下関に行くとさ」
同じく水戸派の副長助勤、平山五郎が歩み寄ってきて芹沢の耳元に顔を寄せる。
「家里の件、アテが外れましたな。アレは梁川星巌の弟子で勤王を叫ぶ連中とも近い。弟が我らに詰め腹を切らされたと知られれば、後々面倒なことになりますよ」
思想家にして詩人、梁川星巌はすでに故人だったが、安政の大獄で刑死した吉田松陰や橋本左内とも交流があり、在りし日は尊王攘夷派の大物と見做されていた。
脱走した家里次郎の兄はその門下であり、京で攘夷運動に関わっていることを知った芹沢達は、仏生寺を使って謀殺を企てていた。
「わぁってんだよ、んなこたあ!」
芹沢は途端に不機嫌になって、平山を突き飛ばした。
ガヤガヤとしていた部屋の中が一瞬静まり返った。
「…家里新太郎の件なら、俺が手を打っといたぜ」
碁を打っていた土方がボソリと言った。
「なんだと?」
芹沢と平山が同時に土方を振り返った。
「身分を偽り、新町で飲んでた長州の青二才どもと仲良くなってな。ちょいと突いといた。放っときゃ奴らが勝手に始末してくれるさ」
「どういう意味だ?」
平山が土方の襟をつかんで問いただす。
「離せよ」
土方は汚いものにでも触れるようにその手を振り払い、
「ほら、お前の番だぜ」
と沖田に顎をしゃくった。
芹沢鴨は黙って次の言葉を待った。
土方は沖田の手を吟味するように頬を摩りながら、芹沢達だけに聞こえる声で先を続けた。
「奴らにチクったのさ。家里新太郎が、弟の次郎を通じて幕府方に情報を漏洩してたってな」
「そりゃ本当か?」
平間が疑わし気に目を眇める。
「それが重要か?お白州で裁くわけじゃねえんだ。別に証拠なんか必要ないさ。要は長州の奴らが裏切りを信じれば、実際がどうあれ、それが事実ってことだろ」
土方は碁盤を見つめながら薄く笑った。
「先を読めなきゃ俺には勝てねえぞ、総司」
浪士組の大坂滞在は月を跨いだ。
運命の五月十日は近い。




