Don Quijote Pt.3
「ありがとう」
警戒しながら差し伸べた琴の手を、安藤はやんわりと退けた。
「おっと!あんたみたいな目立つ娘がこんな大荷物を背負ってちゃ、私が犯人ですって喧伝しながら歩いてるようなもんだぜ?」
「じゃあどうしろって言うです」
「ここは追われる者同士、協力して大坂を脱出しようじゃないか」
琴は眉を寄せた。
「なに?貴方も追われてるの?誰から?」
「それはまあいいじゃないか。確かなのは、此処にいちゃあ二人とも捕まって酷い目に会うってことさ。どうだろ、私が荷物を背負うから、お伊勢参りから帰った武家の娘とその下男を装って、この危地を脱するってのは?」
「その白装束に坊主頭で?」
「痛いとこ突いてくるねえ、お姉さん」
安藤は坊主頭を摩りながら困った顔をした。
琴は目を閉じて軽く首を振った。
「…私の行李に縦縞の木綿が入ってるから、着替えて」
「なんで男物の着物が入ってるのかは、この際聞かないことにするよ。それは、私の提案に乗ったって事でいいのかい?」
「誰だか知らないけど、背に腹は変えられないからね」
「安藤早太郎って者だ。よろしくな」
「琴って呼んで」
安藤は琴の目も気にせず、服を脱ぎながらニヤけた笑みを漏らした。
「お琴ちゃん。なんなら交誼を深めるために、そこらの出会い茶屋で一晩枕を交わしてからでも構わないよ?」
目を逸らしていた琴は、刺すような眼で安藤を睨みつけた。
「…わかった。もう言わない」
次の伏見行きの便まではまだ少し時間がある。
しかし、二人は西に迂回して淀川の支流、鯰川に架かる京橋を渡り、陸路を取ることにした。
「とりあえず京に向かいます」
琴が告げた行き先に、安藤は渋い顔をした。
「わたしゃその京から逃げてきたばかりなんだが…まあいいだろ。どうやら本当に浪士組に潜り込むしかなさそうだな」
琴は安藤の顔をしげしげ眺めた。
「貴方、浪士組の人?」
安藤は苦笑した。
「ああ。ついさっき名簿に載ったばかりだがね。おっと、それ以上は聞かないでくれよ。どうしてそうなったのか、上手く説明する自信がない」
「ふうん」
琴は橋の下を通る船を見ながら生返事をした。
懐にある清河の手紙を、どうすべきだろう。
彼の望んだようにすれば、さらなる混乱を招くだけかも知れない。
それでも…その先には、新しい世界が開ける可能性があるのだろうか。
さて一刻ほどのち。
八軒家のほど近く、船宿京屋。
中庭に面した縁側で、
刀に打粉を打っていた斎藤一が、ふと手を止め、顔を上げた。
外が騒がしい。
「何度言えばわかる!帰れ!」
旅籠の入口で、新任の副長助勤、川島勝司が声を荒げている。
具足を着けたへべれけの侍が、川島に遮られて玄関で立ち往生していた。
「いやいや、わたしは入隊を望んでるわけじゃなくて、用があって来たんだ。通してくれないか?」
「だとしても、お前みたいな酒臭い奴を入れるわけにはいかん!ここは浪士組御用達の宿だ。酔っ払いの来るところじゃない!」
「困ったねえ」
男は無精ひげの生えた顎を掻きながら項垂れた。
川島はイライラに任せて壁に拳を打ちつけた。
「くどい!話は終わりだ!」
奥から様子を見にきた斎藤が、川島の肩に手を置いた。
「こいつとやり合おうなんて気は起こさんほうがいい」
斎藤はその男、仏生寺弥助を覚えていた。
仏生寺は、トロンとした眼で頷く。
「そうそう、それが賢明だ。おや?見覚えのある顔だな」
面の皮が厚いと言おうか、斎藤との揉め事など何もなかったかのようにシラを切ってみせる。
「貴様、舐めるな!」
掴みかかろうとした川島を、斎藤が制して前に出た。
「何の用だ?」
「実はちょいと野暮用で下関に行くことになりましてね。天保山から船に乗るんだが、浪士組が大坂にいると聞いて、顔を見に寄ったんですよ」
「誰の?」
斎藤は魂胆を探るように目を細めた。
そこへ、騒ぎを聞きつけた芹沢一派の平間重助が、二階から降りてきた。
「斎藤、川島、いいんだ。彼は芹沢さんの知り合いだ」
千鳥足の仏生寺は、格子戸につかまってヘラヘラと笑った。
「ええ。九段下の道場時代からの腐れ縁でね」
斎藤と川島が場所を譲るように脇へ寄ると、平間が険しい顔で訊ねた。
「下関…ひょっとして馬関(海峡)へ?」
「そうなんだ。どうやら長州は馬関を通る船に本気でブッ放すつもりらしい。てなワケで、暇乞いに来た。頼まれていた仕事が中途半端で申し訳ないんだが、世間のシガラミってやつばかりは、如何ともし難くてね。で、芹沢のヤツは何処ほっつき歩いてんだい?」
斎藤が、フッと口元を歪めた。
「…また、どこぞの商家をゆすっているのかもな」
平間が斎藤を睨みつける。
仏生寺の方は、嬉しそうに目を細めた。
「おーお、お盛んだねえ」
すると、またしても川島が目を怒らせた。
「待て!すると貴様、長州か?!」
仏生寺はとっさに両手を上げて弁解を始めた。
「確かに連中とは旅の道連れだが、わたしゃお行儀が悪いらしく目を付けられてるんだ。ホント信用なくてさ?船を待つ間、ちょっと抜け出すだけで、見張りを巻くのにひと苦労だよ。これじゃ外国人が敵なんだか、長州人が敵なんだか分かりゃしない」
「ふん、馬関に行く人間を斬りはせん。今はな」
斎藤の答えは川島への牽制も含まれている。
平間は、さながら行く手を阻む岩のように胸を反らせて腕を組んだ。
「芹沢には伝えておこう」
仏生寺は中に上がるのは諦めた方がよさそうだと観念して、上り框にストンと腰を降ろした。
「今日は色々あって疲れたんで、ちょっと座らせてもらいますよ」
それでもまだ居座る気のようだ。
「黒船を見た」
斎藤は唐突に切り出した。
「ほほう。で?」
仏生寺は相変わらず眠そうな目で先を促す。
「あんたは強い。おそらく俺よりもな。だが、黒船に刀一本で立ち向かうことに意味があるのか」
それは、斎藤自身への問いかけでもあった。
「まあ、とうてい大砲にゃ敵わないが、わたしなんざいつ死んだって構わないし、異人さんと刺し違えるのも悪くないかと思ってね」
「そういえば、あんたとは決着がまだだったな」
仏生寺は殺気を秘めた斎藤の目を正面から見据えた。
「確かに。だが今日はもう腹一杯でね。御馳走は愉しみに取っておきますよ」
「では、あんたが死ぬのは、京に戻ってからということになる」
今さら揚屋町での出来事を持ち出したのは、斎藤なりの餞だったのかもしれない。
「さてと、待ってても芹沢は帰ってこないようだし」
仏生寺は軽く両膝を叩いて立ち上がり、平間の肩に手をのせた。
「生きて帰って来て、この方と白黒つけたら、約束通り浪士組のお手伝いをさせていただきますよ」
平間は去っていく仏生寺の背中をいつまでもじっと見送っていた。
「酔っ払いめ。目つきがイカれてる」
「なにか…ただ酒のせいばかりとも思えんが」
斎藤は、三条通りで正気を失って暴れた柴山という薩摩藩士を思い出していた。




