カッパ島の決斗 其之漆
さて、この騒動のさなか、谷三十郎は、いつの間にかちゃっかり乱闘から抜け出し、気がつけば土手の上から近藤に手を振っていた。
「局長殿!ソレガシの加盟をお望みとあらば、この谷三十郎、主の許しを乞うて、弟二人を引き連れ、京まで追いかけましょう!然らば!」
沖田は、竹刀で軽やかに侠客の群れを捌きながら、去っていく三十郎を目で追った。
「あのひと、逃げちゃいましたけど…」
喧嘩に没頭する原田は、振り向きもせずに答える。
「いつものことだよ!ほとぼりが冷めたら、絶対また舞い戻って来るぜ!」
土方歳三が、三十郎の背中を指して、意地悪く山南に尋ねた。
「じゃあ、あいつの使い道を教えてくれよ?」
先ほどまで気配を消していた河合耆三郎が、いつのまにか土方と山南の後ろからボソリと口を挟んだ。
「子曰わく、巧言令色、鮮なし仁と」
口の上手いヤツにロクなのはいないという「論語」の一節である。
山南は、河合の腰をポンと叩いて笑った。
「河合くん、なかなか辛辣な評価だが。人皆、有用の用を知るも、無用の用を知る莫きなり、とも言いますからね」
「ナ、ナハッ!荘子ですね!恐れ入りました」
飾り立てた言葉などに惑わされない土方は、二人のやりとりを一笑に附した。
「は!バカバカしい。無用の用ってな、奴の縁故のことを言ってるのか?」
山南は笑って答えなかったが、老中板倉勝静とのコネを付けることは、マイナスにはならないだろう。
兄よりいくらか世事に通じた菊の方は、コネすら持たない兄の挽回を計るのに必死だった。
「土方様、山南様!けれど兄は、商家の跡取りですから、算術の方で何かお役に立てるのではないかと存じますが…!」
井上源三郎がまた割って入り、土方の肩を強く抱きよせた。
「そいつぁ助かるねえ?いやね、浪士組ってのは、ほら、腕っぷしの強い奴には事欠かないが、数字なんてものにゃ、皆てんで疎くてさあ。そりゃ、算盤勘定に長けた人がいてくれりゃあ、天恵ですよ!ねえ?喉から手が出るほど欲しいよなあ?」
河合耆三郎も、上目遣いに頭を下げて、自分を売り込んだ。
「播州は算盤が名産ですから、幼少の砌より慣れ親しんでおります」
浪士、侠客、町人入り乱れての大喧嘩は、何時果てるとも知れない。
そこへ、大親分明石屋万吉が、悠々と遅れて姿を現した。
「あらあら、えらい騒ぎやがな。慎助!三郎治!庄助!あかんて!この人らは、小鉄さんのお仲間や!」
土手の上から、手にした扇子を軽く振って、渋い顔を作る。
それだけで、ヤクザたちは嘘のようにシンと静まり返った。
「あら?」
心底喧嘩を(ケンカ)楽しんでいた原田と松原は、突然の中断に顔を見合わせた。
松原が、土手の上の万吉に気づいて指さす。
「あー!オマエ!万吉やないか!」
「おや、松原はん。なんでまた、こないな処に…?まあ喧嘩両成敗ちゅうことで。今日のところは、この辺で堪忍したってや。奉行所が乗り込んでくる前に、手打ちにしまひょ」
近藤勇が、明石屋万吉に歩み寄った。
「あなたは?」
万吉は、風体こそ見るからに渡世人だったが、細面で、押し出しが効くタイプとは言えない。
「手前は、小野藩から大坂の見廻りを任せられとります明石屋万吉ちゅう渡世人だす」
これが、蔵之介の言う大親分「北の赤万」か、と近藤はしげしげ値踏みした。
「ケンカを収めて頂き、かたじけない。私は壬生浪士組の…」
「近藤局長さんでっしゃろ?お名前は存じあげとります」
二人はつまり、それぞれ大坂と京都の治安部隊を率いる長という訳だ。
近藤は、深々と頭を下げた。
「これは、ご挨拶が遅れました。徳川宗家のため、互いに力を尽くしましょう」
だが、万吉の方は、その申し出をすんなりとは受け入れなかった。
「あいにくやが近藤はん、わしは将軍様と言えど、諛うつもりはないで。ワシはワシの正義を通させてもらう。それが、この仕事をお受けした条件や」
気持ちのいい返事に、近藤は大きな口から歯を覗かせた。
「お言葉、感じ入りました。ですが、私も闇雲に御交誼に従うつもりはござらん。言うべきことは言い、通すべき筋を通すのが、誠の忠節と心得ます」
万吉は大笑した。
「ヒャッヒャ、気に入ったで近藤はん!お気張りやす」
河原には、気絶した者や怪我で動けなくなった者が、累々と横たわっている。
樽廻船が尾を引く波の音に紛れて、あちこちからうめき声が聴こえていた。
「いま、立ってる人が、合格って事でいいんじゃないスかねえ」
藤堂平助が、無責任な審判を提案した。
だが、何より実戦を重視する土方は、案外あっさりとそれを認めた。
「…だな。合格だ」
最後に立っていたのは、浪士組のメンバーを除けば、
松原忠治と、その子分、柳田三次郎と菅野六郎、林信太郎、
そして河合耆三郎である。
あえて付け加えるなら、谷三十郎もそうだろうか…。
明石屋万吉が、子分たちに大声で指示した。
「よっしゃ、引き揚げじゃ。動ける者は、そこらで伸びとるボンクラを担がんかい!」
今にも万吉に飛びかからん勢いの松原忠司を、三次と六郎が二人がかりで羽交い絞めにしている。
万吉は、去り際にふと振り返った。
「せや、近藤はん」
「え?」
「西町奉行の内山ゆう与力が、あんたらに目えつけとるちゅう話でっせ?」
近藤が、眉を寄せる。
「内山…しかし、そのような方には、会ったこともありませんが」
「ワシもどういう経緯で、そないなことになったかは知らんが、人の揚げ足取るのが生甲斐みたいな男や。不逞浪士退治もええが、足元掬われんように気をつけなはれ。ほな、失礼しまっせ」
再び訪れた静寂のなか、カラスの鳴き声が聞こえる。
今まさに、陽も暮れなんとしていた。
※えらいこっちゃ侍の出典は司馬遼太郎先生「侠客万助珍談」です。




