崩れ落ちる塔のように 其之壱
大坂、北新地から北東14町(約1500m)ほど行った常安橋のたもとに町会所がある。
脱走者、家里次郎は、芹沢一派によってまっすぐそこへ引っ立てられた。
新選組は、後にもこの場所を大阪見廻りの中継基地として度々使っている。
その、奥の間。
浪士組筆頭局長芹沢鴨はめずらしく背筋をピンと伸ばして、上座についていた。
正面には後ろ手に縛られた家里が正座させられ、その両側に近藤勇以下浪士組の幹部たちがズラリと並んでいる。
「さて。家里次郎殿、何よりも優先すべき大樹公警護の隊務を怠り、更には長州に通じる殿内義雄らに加担した裏切り行為により、貴下の処分は切腹が妥当と存ずるが。もとより一方的な処断は当方の本意ではなし、申し開きがあれば聞こう」
芹沢は腕組みをして、もっともらしく口上を述べてはいるが、もちろんこの裁判にはなんら法的な拠り所はない。
だからこそ、被告人が主体的に死を選ぶことを迫ったともいえる。
「い、イヤだ!!私は何も法に触れるようなことはしていない!そうだろう?なんで私が腹を切らねばならないのだ。私が死ぬことに何の意味があるんだ」
芹沢のすぐ脇に座る局長近藤勇が目を閉じたまま重々しく口を開いた。
「確かに。そこまでやらせる必要はなかろう」
家里はすがるように近藤へすり寄った。
「た、頼むから!なんでもする!」
「よしなさい、家里さん。そんな台詞は聞きたくない」
近藤は、命乞いをする家里をまるで汚いものでも見るような眼で一瞥した。
芹沢鴨は、膝を崩し、顎を撫でて少し考える振りをした。
「ふうん。なんでもねえ…」
平山五郎が立ち上がり、家里の髷を掴むと、酒臭い口を寄せた。
「此の期に及んで見苦しい真似は止めろ、家里。芹沢局長や近藤局長がどう取りなそうが、武士として敵前逃亡したあんたの罪は免れねえ」
芹沢は大袈裟に天を仰ぎ、閉じた鉄扇で自らの額をピシリと抑えた。
「もっともな理屈だ平山、だがおめえもけっこうキビシーね」
「そ、そんな!」
「ダメか~。あー、ざーんねん!どうしよっか迷うとこなんだが、こいつらがさ、納得しないことにはさ、こらもうしょうがねえんだ。俺の力が及ばなくて申し訳ないな」
芹沢はわざとらしく渋い表情を作ると、平山を親指で指した。
本来、人情家の近藤は、救いを求めるように山南敬介を見た。
が、山南が口を開こうとしたその時、近藤の希望を断ち切ったのは、意外にも朋友土方歳三だった。
土方は人差し指と親指で作った輪にわずかな隙間を作ってみせた。
「あんたがコレっぽっちでも武士の意地ってやつを持ち合わせてるならさ。せっかく最後にカッコつける機会をもらったんだ。潔く腹をくくりなよ、頼むからさ」
山南が眉間にしわを寄せ、腰を浮かせる。
「土方さん!我々はまだ明文化した法度を持たない。いま、この場の恣意的な判断で人を…」
土方は冷酷な目で山南をにらんだ。
「あんたは黙ってろ。いずれにせよ、俺たちにゃ規律ってもんが必要なんだ。だよな?芹沢局長」
「こんなときだけ、俺の肩書きを都合よく使いやがる。ま、人が集まりゃあ、それをまとめる法度ってやつが必要かもな」
いまや、この脱走者の生殺与奪の権を握る芹沢が、ニヤニヤしながら意見を述べる。
浪士組筆頭局長のお墨付きを得た土方は家里に向き直った。
「だから家里さん、あんたが死ぬことには大いに意味があるんだよ。あんたの死が、この浪士組の掟の指標になるってわけさ」
こうして、判決は下された。
その場を、
一種の狂気が支配していた。
長雨で水量を増した土佐堀川のせせらぎが嫌に耳につく。
家里次郎は、退路を絶たれ、その日のうちに大坂常安橋会所で詰め腹を切らされることになった。
あれよあれよと言う間に、あり合わせの裃を着せられ、三方に載せられた白鞘の短刀が目の前に置かれる。
「こ、こんな。こんな裁きがあるか。これは私刑じゃないか!せめて会津公に、いや公用方の秋月殿を呼んで話をさせてくれ!」
とうとう痺れを切らした芹沢が、いつもの粗野な態度にもどり、頭をかきむしった。
「どうでもいいが、ピーチクパーチクうるせえな。モタモタしてんなら、腹を切る前に俺がそのよく喋る首から上を切り離しといてやろうか?」
会所の外からは、いつもと変わらぬ街のざわめきが聞こえる。
試衛館の面々は、その日初めて切腹という武士の作法を目の当たりにした。




