愚か者の舟 其之肆
家里は、琴を見ると休む間もなく腰を浮かし、可哀想なくらいオドオドしながら刀に震える手を掛けた。
「お、おまえら、いったい何者なんだ」
「おいおい、疑ぐり深いやつだなあ。今助けてもらったとこだろ。敵じゃないったら」
阿部は寝ころんだまま面倒くさそうに手を払った。
「上手く誘い出して、ここで斬るつもりかもしれん」
「てめ、言うに事欠いて…!」
だが、琴の方はそんなことはどうでもいいといった様子で、下流に舟を進める。
「この舟の上で?殺すつもりなら、いちいちそんな面倒くさい手間はかけない」
阿部はようやく腕を付いて半身を起こした。
「つーかさ、あんたいったい何をやらかした」
「し、知るか!俺が何をやっただと?ただ大樹公をお護りしたい一心で上京し、鵜殿様からの言いつけを律儀に守って浪士組を建て直そうとしたんだ」
濡れ鼠の家里には、もはや風流男子と呼ばれた面影はなく、その姿に相応しい哀れな声で訴えた。
「ふん」
琴は冷ややかな目でせせら笑った。
「わかるだろ?私には、斬られなきゃならん何ほどの落ち度もないはずだ」
堂島川に合流する手前の小橋に差し掛かったとき、琴はここまでくれば大丈夫だと判断したのか、舟を中洲側の岸に寄せると、器用に櫂を操りその小橋の陰に停めた。
「それを決めるのは私じゃないし、私にはあなたを助ける義理もない。ただ、無様な仲間割れを見かねただけだ」
阿部はうんざりした様子で家里の顔を覗き込んだ。
「なんだよう、あんたも、あの浪士組の人間か。つまり二人は元ご同輩ってわけかい」
それから琴のほうを振り返って少し考える顔をした。
「そう言や、廊下の奥に突っ立ってる大男がチラッと見えたが、ありゃ下村、もとい芹沢鴨じゃなかったか」
「壬生浪士組、芹沢筆頭局長って言いなさい」
「何がヒットウキョクチョーだよクダラネー。あの野郎、よほどお山の大将が性に合ってるらしい。あんな奴に追い立てられるなんざ胸クソ悪わりい話だぜ。とっくにクタバッたと聞いてたが」
「なんだか珍しく面白そうな話じゃない」
「ケ!思い出したくもないね!」
阿部は、そのことにはもう触れたくないという風に手のひらをかざし、琴の問いかけるような視線を遮った。
「もういいだろ、いまはそれどころじゃねえんだ!」
「女、おまえ、浪士組にいたのか」
自身の素性が知られていたことで、家里はますます態度を硬化させた。
琴は橋脚に舟を舫いながら、安心させるように微笑んだ。
「そう殺気立たないで。私も一緒に中山道を上ってきて、京で抜け出したクチなんだから。そう、あなたにも見覚えがある。浜崎とかいう医者のうちに居たでしょ」
「ふ、あの浪士組に女が混じっていたとはな。とにかく私にはもう関係ない」
「やれやれ。こいつの腰抜けっぷりには手の施しようがないね」
阿部は呆れた顔でのっそりと起き上がると、岸によじ登った。
さいわい、辺りに人影はない。
琴も家里の怯懦な性格にうんざりしていた。
「気づいてる?あなたは今ならまだ自分で道を選ぶことができる」
「選べる?選べるだと!?私は一度だって仕えるべき主を変えたことなどない!これまでも!これからもだ」
「そうじゃなくて、つまり…」
「私は選んだんじゃない。選ばれたんだ。鵜殿様に、板倉様に!何もわからないくせに偉そうな口を聞くな!」
琴は阿部が差し出した手につかまりながら口の端を引き結び、諦めの表情を浮かべた。
「そう。じゃあ、さっさとこの上方を離れることね」
家里はそれを聞くとさらに捨て鉢になり、ヒステリックに笑った。
「それでどうなる?江戸へ帰っても近藤たちの親玉、佐々木只三郎が待ちかまえている。私は鵜殿様から聞いたんだ!やつらの背後にいるのは、老中筆頭板倉勝静その人だと。とてもケチな浪人風情が逃げおおせるような相手じゃない」
「じゃあ、行く宛てはあんのかい」
「京にいる兄の下にしばらく身を寄せるさ。ほとぼりが冷めるまでそこに潜伏する」
「あなたの言う老中首座がほんとに黒幕なら、そこにも早晩手が回る」
家里は納得がいかないという風に地面を叩いた。
「何故だ!一度は我々に浪士組の舵取りを任せた板倉様が。なぜ!」
「そんなことは知らない。けど、何も斬られるわけじゃないでしょう」
「あんたらは何も解ってない。奴らは容赦しない。あの清河八郎ですら殺られたんだ。俺も殺される」
琴は、這うように陸に上がる家里の背中を見ながら、その大きな眼を見開いた。
「…今、なんと言ったの」
だが家里は自分の言葉に取り乱して、地べたに膝を付いたまま頭を抱え込んだ。
「俺も、そう、俺も殺される!」
「違う!その前…!」
「う、う、うるさい!もう放っておいてくれ!ついてくんな!」
家里は何かを振りほどくように手をジタバタと振って、いきなり駆け出し、路地の向こうに消えてしまった。
「…なんだあいつ。イカレてやがんな」
同意を求めるように阿部は振り返ったが、琴はただ呆然と立ち尽くしていた。




