愚か者の舟 其之壱
原田左之助が、蜆川に架かる橋をブラブラ渡り出したその頃。
「まずいことになった」
琴は座敷の騒ぎを見て、女中部屋にとって返した。
自分の荷物を押入れから引っ張り出し、中沢九郎に戻るために髪を解いていたところへ、バタバタとやってきた小寅が襖をバンと開け放った。
「ちょ、ちょっと来て!上で誰か暴れとるねん!それと、なんか布巾代わりになるもん!、て、うわああああ!!!…な、な、な、なんやねんあんた!」
小寅は得体の知れない男が、女中部屋で着替えているのを見て腰を抜かした。
「あれ?見られちゃった」
それは聞き覚えのある、しかも女の声だった。
少し落ち着きを取り戻した小寅は、恐る恐る男の顔を覗き込んだ。
「えっ?だ、だ、だ、だれ?え?ひょっとして、あんた、お琴ちゃん?なんで!」
確かに、どことなくその面影がある。
「えーと、あのー…」
琴が苦り切った顔をしたとき、
不意に小寅の肩越しに野口健司が現れた。
「おい女中!これは我々身内の問題だ!人を呼んだりしたら…」
言い終わらないうちに、
琴が手にしていた刀の小尻で、野口の顎を突いた。
軽い脳震盪を起こした野口は、そのまま仰向けに伸びてしまった。
「そ。わたし!小寅ちゃん、ちょっと着替え手伝って」
琴は開き直って、小寅に帯を押し付けた。
「え?なに?そやけどウチ、いま、そや!布巾!布巾探さな!いや、まてよ。今それどころとちゃうんか?ていうか、あ、あ、あ、あんたそれ、なな、なに持ってんねん!」
新町遊廓で沖田総司に自分の刀を預けていた琴は、清河八郎の刀を押し入れに隠し持っていた。
だが、それを見て、小寅はようやく思い出した。
「…思い出した!あんた、さっき座敷におった浪人の片割れやんか!」
彼らは、つい最近追い返した二人連れだった。
琴は口をパクパクさせている小寅を軽く手で制した。
「説明させて。でも後でね。とにかく、二階の騒ぎを止めなきゃ。死人が出る」
「あ、あんた、あの連中の関係者か!」
琴はさも心外な様子で顔をしかめた。
「…関係したくてしてるわけじゃないけど、まあ、そうとも言える」
小寅は着替え終わった琴をしげしげ見てため息をついた。
「お琴ちゃん、なんでこんな事してるん」
琴はただ力なく笑って返事を濁した。
「まあええ。さっきは助けてもろたし、ここまで来たら一蓮托生や。どうせここもそろそろ引き払う潮時やから」
「え?」
「昨日の客覚えてるやろ、桂はんとかいう長州のおサムライ。ヤモリの岩吉さんの口利きで薩摩に顔をつないでくれゆうて来たんや。もちろんご主人じゃ、なんのこっちゃ分からんから、うちが相手してん。…確かあんたもおんなじこと言うてたやろ」
琴はなんと答えてよいか分からなかったが、小寅も返事を期待していたわけではなかった。
「別に答えんでええ。多分、あんたも、桂はんも、ここに来るまで薩摩の誰と話をすべきなんか知らへんかったみたいやし」
小寅はしゃべりながらも忙しく着付けの手を動かしている。
「ダメ元で聞くけど、桂さんは、その薩摩の総代と連絡が取れたの?」
「いいや。ウジャウジャ小難しい前置きが始まったさかい、紙に書いてくれて頼んだんやけど、昨日もおんなじ用向きの客があった言うたら、なんや警戒させてしもたみたいで、逆に向こうから取次ぎの話を引っ込めてしもたんや」
「何もせずに帰ったってこと?」
「まあね。せやから話すんやけど。連絡を待ってるて。島原の輪違屋にいる桜木太夫に手紙くれたらええからて。それだけ」
「桂というのは長州の祐筆の名前よ。彼がその桂なら、なぜ堂々と薩摩の京屋敷を訪ねないで、貴方や島原の太夫を通す必要があるの?」
「あんた、よおも物怖じせんとズケズケ聞くなあ。寺田屋の話は聞いたことあるやろ?つまり、薩摩も一枚岩やないちゅうこっちゃ。ほんとの意味で総代なんちゅう者は居らん。あんたらみたいな得体のしれんのが毎日訪ねてくるいうことは、うちのやってる連絡係がバレんのも時間の問題やし、そろそろここも危うなって来たから、薩摩の伝を頼ってどっか他所の店に移ろ思てんねん」
小寅はそう言って、この話は終わりだと告げるように琴の帯をギュッと締めた。
予想していたことながら、やはりこの小寅も都の政争に何某かの役割を果たしており、
なにやら身辺が騒がしくなってきたことに危機感を募らせている様子だった。
琴にはそれが何なのか引っかかったが、いま問いただしている余裕はない。
「ありがと!」
着替え終えるなり、清河八郎の刀を腰に差すと、
紀の国屋の裏手に周り、
舫いであった小舟を躊躇なく拝借して、
蜆川に漕ぎ出した。
「やれやれ、勝手に抜け出したうえに舟なんか持ち出したら…もう完全にクビね」




