ファム・ファタール 三幕
井上兄弟と土方歳三、沖田総司の四人は、道々、浪士組の近況などを話しながら、新町遊郭の一画、九軒町にある老舗の揚屋に向かっていた。
阿部慎蔵も憧れた、かの「吉田屋」である。
「どうだ?近ごろ、近藤さんの様子は?」
松五郎がさりげなく尋ねると、弟の源三郎は少し表情を曇らせた。
「ま、張り切ってるよ。ともすれば、張り切りすぎて空回りしてる感もあるが…」
「天狗になってるなんて聴いたから、ちょっと心配してたんだ」
土方歳三が小さく舌打ちする。
「ちぇ、あいつが偉そうなのは、今に始まったことじゃねえだろ」
少なくとも土方や源三郎は、己にも他人にも厳しくあろうとする近藤の真意を汲んでいたが、それを口に出してしまえば、悲壮な覚悟に水を差すような気がしていた。
「次男の泰助なんかは、お前たちに憧れてるんだ。内輪で揉めるようなことはせず、多摩の子供達に胸を張れる仕事をしてくれよ」
松五郎は無自覚に、沖田らにとって、もっとも残酷な言葉を口にした。
死んだ殿内義雄のことを思い出したのか、沖田の顔に翳りが差した。
「…ええ」
何かを察した松五郎は、沖田の肩を勢いよくポンと叩いた。
「すまんすまん!説教じみた話はヤメだ。それもこれも、今日のところは忘れよう」
…さて、その新町遊郭では。
井上松五郎らより一足先に、中沢九郎こと男装の中沢琴が、再び東大門をくぐっていた。
先を急ぎたいが、朱格子の出窓が並ぶ目抜き通りを脇目も振らず突っ切っていく男などいない。
彼女は、いや、彼は、少し焦れた様子で周りの歩調に合わせ、二丁(約220m)ほど行ったところで脇道に入ると、一本裏手の通りをまた早足で歩きはじめた。
やがて津国屋という屋号の置屋の前で立ち止まり、そこで見覚えのある女が玄関先に水を撒いているのを見かけた。
たしか、あの太夫道中の中にいた引き舟女郎だ。
「もし」
声をかけると、相手も琴の顔を覚えていたらしく、にっこり微笑み返してきた。
「おや、あんさんは、あの時の」
「実は、折り入ってお願いがございます」
琴が唐突に切り出すと、引き舟女郎は、綺麗に描いた眉をハの字にして頰に手をやった。
「はあ?お侍さんが置屋まで直接足を運んでお願いとは、よほどのことだすやろけど、あいにく、いま若鶴姐さんは、お座敷で留守だす」
「いえ、太夫にご用があるわけではありません。不躾ですが、じつは、お譲りいただきたいものが…」
と、懐から財布を取り出した。
一方、その同じ頃、大坂城。
会津藩に付き従って登城した浪士組局長芹沢鴨と近藤勇は、ともに浮かない表情で、二の丸にある多聞櫓の出口から階段を降りてきた。
大手門を出れば、京屋のある八軒家浜は目と鼻の先だ。
芹沢鴨は頸をグルグル回し、肩周りの骨を鳴らしながら毒づいた。
「チッ、詰め所とはよく言ったもんだぜ。にしてもだ。いくら俺たちが下っ端だからって、ありゃ詰め込みすぎだろ!」
とは言え、一介の浪士である芹沢や近藤が、天領(江戸幕府直轄地)の城内に足を踏みいることを許されるなど、本来であれば大変に誇らしいはずである。
近藤は、怒れる筆頭局長の気を逸らせようと、適当な話題をみつくろった
「さすが広大な城ですねえ…こっちに来てからまだ一度も天守を目にしていない」
「んなもなあ、もう200年も前に焼けて失くなっちまってるよ」
芹沢は不機嫌な顔を隠しもせず、素っ気なく応えた。
「なぜ建て直さんのです」
この時代の大坂城は、寛文年間の落雷で天守こそ失っていたが、それでも近藤たちを取り囲む巨大な石垣が、かつてこの場所が日本の中心であったことを偲ばせた
「ふん、必要ねえから…いや、必要なかったからだろ。少なくとも今までは」
先を歩く会津藩公用方、広沢富次郎は、緊張した時の癖なのか、先ほどからやたらと髷の位置を気にしていたが、急に険しい表情で二人を振り返った。
「門を出るまで、私語は慎まっせ。すっだことより、今日下知のあった警護の仔細を、隊士にもよおく言い聞かせてくんつぇ。明日はいよいよ勝阿波守(海舟)自ら蒸気船を指揮し、大樹公や姉小路公知卿を乗せて沖に出る」
「はあ。そのことですが、どうも納得いきません」
近藤が、うつむきがちに珍しく異を挟むと、芹沢鴨も二の丸に連なる櫓を仰いで、ため息をついた。
「冗談キツいぜ、まったく。姉小路って、ありゃ学習院で攘夷派を操ってる連中の、親玉じゃねえか」
味方を得た近藤は、胸につかえていた疑念を口にした。
「一方の勝安房守(勝海舟)様は、開国派の牙城。まさに呉越同舟というわけです。何かない方がおかしい」
「そっだこと言わんに!」
もう一人の公用方秋月悌次郎が、二人の言葉を戒めたにもかかわらず、
同僚の広沢の口から、つい同じような愚痴がこぼれる。
「確かに…大樹公をあの敵だらけの船に乗せるというのに、我々が同乗できねえなの、おもしゃぐね。これでは何のために付いて来たのか分かんねえし、そもそも、勝安房守が大樹公(徳川家茂)に何を吹き込むやら分かったもんでね!」
近藤が苦々しげに角ばった顎を撫でた。
「まったく、歯がゆい。こんなとき、我々はむなしく陸でお留守番とは」
攘夷が公式に発表されたのはたったの二日前である。
何もかもが性急で、彼らには刻々と移ろう状況を後追いするのが精一杯だった。
だが見栄っ張りの芹沢鴨は、あくまでそれを認めようとしない。
「ま、どっちにしろ俺ぁそんなもんに乗って船酔いするのはゴメンだがね」
彼には、浪士組筆頭局長に相応しい悠揚たる態度を保ち、演出することが何より大切らしい。
秋月と広沢は顔を見合わせ、ともに嘆息した。




