紅い華と、碧い眼
この都に着いて以来、酒におぼれる日々が続いている。
毎夜、泥酔してみる夢は陰鬱なものばかりで、
目が醒めた後の現実は、さらにクソみたいだった。
意識は、その境い目を、行ったり来たりと揺らいでいる。
まどろみの中、新見錦は過去をさまよっていた。
幸せな少年時代。
水戸。
神道無念流金子健四郎の道場で、稽古に明け暮れた日々。
あの頃、自分はいつも、二人の先輩の背中を追いかけていた。
美しく聡明な少年、大蔵。
優しく強かった、繁之介。
共に才能に恵まれていた二人は、同い年の親友で、剣の腕を競う好敵手だった。
そして、自分は彼らに憧れ、慕う弟。
ああ、そうだ。
森山繁之介。
彼はもういない。
あの、雪の日から。
しんと冷えた空気。
荘厳な高麗門の前、
鮮血に染まる雪。
一面の銀世界に点々と咲く、紅い華。
安政7年3月3日、朝。
桜田門外。
あの日、自分は、新家粂太郎は、引き裂かれたのだ。
忠義と正義と友愛は、必ずしも相容れず、互いを打ち消しあうことを知ったのだ。
大蔵は、
あの穢れのないもう一人の兄はどうだったのだろう。
鈴木大蔵とはあの後一度も会えずにいるが、
彼も、醜い現実と折り合いをつけたのだろうか。
そう。
そういえば。
記憶はどんどん脈絡のない方向に移ろってゆく。
大津宿で見たあの美しい浪人は、大蔵にまるで瓜二つだった。
だが、断じてあれが大蔵であるはずはない。
どれだけ年月が経っても、自分が太蔵を見間違うことはない。
目が違う。
大蔵には、あんな禍々しい殺気はない。
佇まいが違う。
大蔵の身にまとう空気は、
雪がやんだ、あの冬の朝のように、
ピンと張りつめた清廉さがあった。
声が違う。
歳も違う。
じゃああれは、
あの男は誰だったのだろう。
遠くで、誰かがなにか語りかけている。
「…ねえ、あなた。そんなところで寝てられちゃあ入れないんだが」
くぐもってはいるが、どこかで聞いたことのある声だった。
五感が徐々に冴えてくると、
細い腕が肩を揺すっているのに気づいた。
「やっと起きてくれましたか。人のことは言えないが、家に帰った方が…おや、あんたは芹沢と一緒にいた…」
重い瞼を開けて見上げると、
そこには、なで肩の中年男が膝をついていた。
「私のこと覚えてますか?ほら、船屋町のなんとか屋で会った、仏生寺ですよ」
「…仏生寺、仏生寺さん?」
新見は、夢現でその名を呼んだ。
「ええ」
「ぶ、仏生寺さん、あんたは、ほ、本当に下関に行く気が、あ、あるのか」
まだ、寝ぼけて呂律が回っていない。
「はは、いきなりずいぶん失礼なことを聞くじゃないか」
目の前には徳利と盃が転がっていて、畳には新しいシミができている。
新見は、視線を上げてぼんやりと周囲を眺めた。
見慣れない本が積まれた部屋。
ここは…
ハッと現実に帰って、飛び起きた。
「…芹沢さん?」
「芹沢は先に帰ったようです。どうもわたしゃずいぶん皆さんをお待たせしたようですな」
仏生寺は酒臭い息を吐いて、申し訳なさそうに頭を掻いた。
時刻は、とうに丑三つ時(2:30am)を過ぎている。
梟が鳴いていた。
新見が辺りを見回すと、吉成勇太郎と阿部慎蔵が傍らで酔いつぶれている。
仏生寺は同じように部屋を見渡して、
「この顔ぶれは、いったいどうした集まりなんです?」
と、訝しんだ。
その声に反応したのか、突然、阿部がムクリと起き上がり、
仏生寺の姿を認めるなり、もつれる脚で飛びかかった。
「てめへこのやろお!ついに屋敷まれ押ひ入っれきひゃがったか!吉成どの〜!拙者が食ひ止めましゅゆえ、お逃げくだひゃれ〜!」
「じょ、冗談じゃない、あたしゃ呼ばれてきたんだ。そんな物騒な用件じゃありませんよ」
仏生寺が、あきれ顔で飛びかかってきた阿倍の頭を軽くいなすと、
阿部は畳に突っ伏したまま、また寝てしまった。
「この働きに免じて、わ、わらくひもでひ馬関にお供を…かにゃらず毛糖どもと刺し違えてごりゃんにいれましゅる…」
「すごい寝ぼけっぷりだな…なるほど、この人も馬関行きを願い出に来たわけですか。皆さん、よほど戦がお好きと見える」
その態度が癇に障ったのか、新見は酔いも手伝って、つい阿部を弁護した。
「この男は、少なくとも国の行く末を憂いて、自分の血を流す覚悟を持っている。馬関行きを、ただ士官の手段と考えている貴方よりは、いくらかマシだろう」
「そんなもんですかね。けど、言わせて貰えば、お武家の貴方には私の気持ちなんざ分かりゃしませんよ」
「貴方が下関で夷狄と戦う気がないなら、私はあなたを軽蔑する。だが、芹沢さんとの約束を反故にして京を離れるつもりなら、私はあなたを許さないだろう。どちらにしてもあなたとは解りあえないということだ」
「はあ。なるほど。で、そういう貴方はどうなんです?」
「なに?」
寝乱れた髪を整えながら新見は問い返した。
「ご大層な数の手下をひきつれて、息巻いちゃあいるが、あんな貧相な部隊で、本気で奴らと渡り合うつもりなんですか?」
「浪士組は頭数こそ少ないが、何れも使い手揃いだ。長州軍なんぞに遅れはとらん!」
新見は、仏生寺から虚仮にされて、初めて近藤たちを仲間と認識していることを自覚していた。
「どうも、この歳になると、小便が近くなってたまらん…なんなら、あなたも下関に来て、現場に立ち会ってみちゃあどうです。本当の命の獲り合いというのは…」
仏生寺はニヤニヤしながら、新見の襟元を正し、その目を覗き込んだ。
「…なかなかに痺れるもんですよ。無抵抗の町人を脅すのとは、また違った趣がある」
「それ以上愚弄すれば…」
腰を浮かした時には、
仏生寺の白刃が、喉元に突き付けられていた。
「やめましょう。芹沢の腹心を殺したくないが、こう酔ってちゃ手元が狂わないとも限らない。それに。将軍様と長州はこれから力を合わせて異人と戦うことになったんでしょう?馬関でやつらに一泡吹かせたら、戻ってきて約束通り力を貸してあげますよ」
仏生寺はそっと刀を引き、残り物の炙ったイカのカケラを咥えた。
「ふっ」
酒臭い部屋の中で、新見はいつもの冷静さを取り戻し、スッと立ち上がった。
「いいでしょう。だが、次に会うのは馬関だ。存分に青い眼の首級の数を競いましょうぞ」
この日を境に、新見錦は屯所から姿を消した。
隊士たちには、一橋慶喜の江戸行きに随行したとのみ、簡単に伝えられた。




