落ちた偶像 其之壱
すでに陽は翳っている。
会議が終わったあと、皆は食事の支度ができるまでの間、銘々好きなことをして過ごしていた。
前川邸の薄暗い部屋には、芹沢鴨と新見錦が二人、背中合わせに座っている。
雨は上がり、軒からの雫がポタポタと音を立てていた。
芹沢が頬杖をついて嘆息する。
「…清河の野郎、勝手にくたばっちまいやがって。張り合いのねえ」
だが新見はまったく別のことを考えていた。
「清河が死んだ…つまり我々の出番も近い」
「ふん。楽天的だな。ひと暴れするには、まだコマ不足だぜ。差し当たり仏生寺さんを招き入れるのが先決だ」
「その件は心得ています。が、仏生寺さんは表向き長州の庇護下にある。こちらから直接引き抜くのは不味い」
新見は腹心らしく、阿吽の呼吸でその案件に関する指針を述べた。
「ちぇっ、細けえこと気にすんじゃねえよ」
「…芹沢さん。わたしは明日にも吉成さんを訪ねようと思う」
「吉成って、あの吉成勇太郎か?」
それは、仏生寺弥助の付け狙っている会津の厩番が、ここのところ頻繁に会っていると言う水戸藩士の名前だった。
「ええ。今は京に出て木屋町におられます。あの方は、仏生寺を呼び寄せた長州の桂小五郎とも通じている。口添えがあれば事を荒立てることもないでしょう」
桜田門外の変で攘夷の先鞭をつけた水戸藩も、安政の大獄以来、すっかり主役の座を長州に奪われた感がある。
この吉成勇太郎という改革派の兄貴分的な藩士は、昨年から二条木屋町樋之口下ルに居をかまえ、地道なロビー活動を行っていた。
彼は、のちに天狗党の旗頭となる藤田小五郎の剣の師であり、芹沢の出身地玉造村の過激派からも一目置かれている。
「貴方も会うべきだ」
「あんな奴に頼みごとをするなんてのは、金輪際ゴメンだね」
芹沢が忌々しげに顔をしかめる。
「またそんな憎まれ口を。我々には命の恩人だ」
とその時。
「こんな暗い部屋でなんの相談スか?隊の話だとしたら、局長が一人足りないようだが」
突然口を挟んだ者がいる。
新見が顔を上げると、暗い廊下に藤堂平助が立っていた。
新見は、その顔を睨み返した。
「立ち聴きか?」
藤堂は無視して芹沢に向き直った。
「芹沢さん。あんた、御三家の名を笠に着て、なし崩しに筆頭局長なんてもんに収まっちまったが、会津からは、所詮桜田門で大老を殺した物騒な連中の一味と見做されてるんだ。あんただって、本当は分かってるはずさ。それがご不満なら、身を切るしかねえと思うがね」
「何が言いたい?」
芹沢は胡座をかいた膝に目を落としたまま、低く呟いた。
「いるんだろ?木屋町にさ。長州の桂や、土佐の武市みてえに、気の荒い水戸の若衆を束ねてるヤツが。じゃあ、そいつの首で、お上や会津候の信用を買えばいい」
「見縊るなよ、小僧」
芹沢の目がギラリと光った。
「親切で言ってるんスけどね?じゃあ、これからもずっと飼い殺されて、いずれ近藤さんに首をスゲ替えられんのがオチだぜ?お気の毒様」
「貴様!」
「おー怖わ」
新見が腰を浮かすより先に、藤堂はヒョイと飛び退き、姿を眩ました。
苦虫を噛み潰したような顔で、新見が再び腰を下ろすと、
障子の陰から、また藤堂がヒョッコリ顔を出した。
「あ、そうそう。肝心の用件を伝え忘れてましたよ。お雅さんが、ご飯の支度が出来ましたってさ」
新見は、藤堂の足音が遠ざかっていくのを確かめて、再び口を開いた。
「…私は浪士組を離れ、吉成様の周旋(政治活動)に手を貸すつもりです」
芹沢は、まだ新見に背を向けてキセルを吹かしている。
「…穏やかじゃねえな。まさか、あの雑魚に言われたことを気に病んでるのか」
「ずっとというわけじゃない。芹沢さん、私は焦っているんだ。浪士組は次の段階に進まねばならん」
「勝手にすりゃいいが、俺は、あの吉成にまた頭を下げる気はねえ」
「そうじゃない。今度は我らがあの方に力を貸すのです。吉成様は、いま京を離れるわけにはいかない。私は彼の足となり、馬関の様子をこの眼に焼き付けてくるつもりです。奴らがどれ程のものなのか。いったい日の本はどこまで奴らと渡り合えるのかを」
「恩返したぁ律儀なこった」
「個人的な義理を果たすために行くんじゃない。すべてはこの国の為です。水戸にいた頃は、尽忠報国の志を持って一緒にやってきた仲じゃないですか。芹沢さん、あなただってその気持ちに嘘はなかったはずだ」
「ハッハッハ、あの頃は派手に暴れたもんだよな」
新見は小さく微笑んだ。
「…ええ。痛快でした」
「…楽しすぎて、ちとやり過ぎたが」




