チカマツ的な一幕 其之弐
やがて男は、すれ違った柳太郎の方を一度ちらと顧みてから、愛次郎に向き直った。
「わしの大切なお国を苛めちゅう浪士組ち奴らの面ぁ拝んじゃろ思うての。刀を持たされてほたえゆう、たっすい百姓じゃか」
二人の距離は川を隔てて、八間(約15M)もある。
もちろん、その言葉は佐々木に届かない。
だが佐々木は、その唇の動きから、男の発する悪意が自分に向けられているのをはっきり感じ取っていた。
男は眼を閉じ、口の端を吊り上げてニヤリと笑うと、
「お上も、よっぽど人手に事欠いちゅうようじゃ」
代々将軍家に仕える大名、青山忠敏の屋敷の壁をポンポンと叩いてみせた。
愛次郎は一歩前に踏み出し、男に怒鳴った
「わたしに何か用か!」
だが、吉村は愛次郎の目を見据えたまま、なおも低く呟いた。
「おまんらにゃ、清河さんの件で、ごつい借りが出来たきねや。今のうちにほたえときや」
吉村虎太郎-ヨシムラトラタロウ-
それは、かつて寺田屋事件の引き金となった伏見義挙に加担し、今また京に舞い戻って幕府の転覆を目論む土佐の浪士だった。
正確には、この時の吉村は、同郷の坂本龍馬や中岡慎太郎を差し置き、いち早く土佐を脱藩している。
切れ長の目には、暗い炎が揺らめいていた。
「もっとも…ワシも他人のことぁ言えんき。清河さんが去んで、桂さんと武市さんは家を空けちゅう。舞い上がんなち言う方が無理じゃ。こりゃあ梼原村の百姓に、都を乗っ取れち八幡さまの御告げかいの…?」
「クソ!あの男、さっきから何をブツブツと!」
苛立ちを募らせる愛次郎の横顔に、先ほどまでの優しげな美青年の面影はなかった。
あぐりは、それでも壬生狼と呼ばれる戦士の手をぎゅっと握っていた。
吉村は、佐々木を挑発するように人差し指の先で、こめかみをコツコツと叩いて見せた。
「仮に破滅へと導く甘い罠じゃとしても。ここで指を咥えとって、久坂さんやら長州の書生どもにええとこ持ってかれるくらいなら、わしは敢えてその誘いに乗っちゃろうぜ」
もはやその言葉は、愛次郎や浪士組に向けられたものではなく、自らへの暗示だった。
愛次郎とあぐりは立ち尽くしたまま、建物の影に姿を消す吉村を見送った。
さて、その頃。
半里(1.9Km)あまり西にある壬生村、八木邸。
浪士組局長近藤勇は、離れの六畳間に沖田を除く試衛館の幹部たちと座を囲んでいた。
「大樹公は、きたる五月十日をもって攘夷実行の期限とする旨を御前にて奏上されるそうだ」
「…おお」
一座に小さなどよめきが起き、近藤はここでひとつ息を入れた。
「京の治安も、これで少しは落ち着いてくれりゃいいが」
その近藤の腹心、副長土方歳三が膝に頬杖をついてフンと鼻を鳴らす。
「だが、これからひと月足らずのうちに開戦など、現実的とは思えん。長州、土佐、それからあのいけ好かねえ学習院あたりの圧力で、苦し紛れに出た空約束てとこが本音だろ」
遅れてきた井上源三郎がのそりと座敷に入ってきて、年長者らしい口調でたしなめた。
「おいおい、外まで聴こえてる。物言えば唇寒しってね。なかんづく政の話は剣呑だぜ?」
「ふん。遅いぜ源さん」
「こりゃどうもすまないねえ。門のとこで素振りしてたらつい夢中になっちまって。はいはい、邪魔、邪魔」
井上は軽く手刀を切ると、寝ている原田左之助を脚でグイグイ脇に退けて、自分が座る隙間を作った。
土方はヒョイと縁側に身を乗り出してどんよりとした空を見上げた。
「雨なんだろ?それしかやるこたねぇのかよ。てえか、道場は何時んなったら出来んだ?」
「話を逸らすなよ。だいたいお前さんは口が過ぎる。なあ?」
井上から同意を求められた近藤は、渋い表情で押し黙っている。
おそらく土方と同じ懸念を抱いているに違いなかった。
「おやおや、そうなのかい?歳の言うことは図星ってか」
「そうは言わないが…」
なにやら話がきな臭い方向に逸れてゆくのを案じたのか、もう一人の副長山南敬助が無言のまま立ち上がって、人目を避けるように縁側の障子へ手をかけた。
と、そこへ。
ほろ酔いの筆頭局長芹沢鴨が菱屋の梅と連れ立って帰ってきた。
「この鬱陶しい梅雨空に、窮屈な部屋で額を突き合わせて政治談議かよ?ったく、物好きな奴らだな」
軽口に、梅が着物の袖で口元を覆う。
「ふふ」
女好きの永倉新八などは、その妖艶な仕草に吸い寄せられて膝で這い寄ってきた。
「そそそ、そ〜なのよ!お梅ちゃんもそう思うだろ?こ〜いつらときたら、雨に煙る都の風情に頓着する余裕なんざ、いっこう持ち合わせちゃいねえ田舎侍なのさ。こ〜んな日はさあ、庭の紫陽花でも愛でながら、おれと一献いかがなもんかね?ね?ね?」
土方が永倉の口を乱暴に押さえつける。
「田舎もんで悪かったなあ」
「…てめえ、ほんといい根性してやがんな」
芹沢鴨も呆れて永倉の額を人差し指で弾くと、梅の肩を引寄せた。
梅は肩の手を軽く振り払い、永倉に微笑みかける。
「せやけど。殿方がしかめ面で難しい話したはるの、うち好きやわあ。構しまへんさかい、続けとくれやす」
「じゃそーしま〜す」
永倉はすり寄ってきた時と同じスピードで座敷の奥へ引っ込んでいく。
山南敬介は、このやり取りのあいだ、終始渋い顔をしていた。
いったいこれだけ毎日飲み歩く金はどこから来るのだろうと考えただけで憂鬱になる。
それを察したわけでもないだろうが、この中では一番若い斎藤一が、庭先で餌を啄む鶏を一瞥してボソリとつぶやいた。
「…雌鶏鳴いてなんとやら…か」
梅の切れ長の眉がピクリと動く。
「なんどす?」
斎藤はその問いを黙殺して、永倉らに向き直った。
「あなた方が京に上ってくる少し前、四条大橋で裸にひん剥かれた女が晒された。幕府方の間諜として働いた廉とか」
梅の顔にみるみる血の気がさした。
「どういうこと?聞き捨てならへんわ!うちが長州へ密告するとでも思たはんの!」
永倉新八が慌てて取り成す。
「なあに、酒の席でふと漏らした一言がお上に知れて、曲解される、な~んて、昨今珍しくもないから、かたがた気をつけましょうねって話さ。な?斎藤、な?」
斎藤は、また梅をジロリとみて、鼻であしらった。
「ふん。あるいは、その女が話をでっち上げていたのかもしれんな。酒席で誰が何を言ったかなど、誰にもあとから確かめる術はない」
その視線を勝気な目で真っ向から受け止め、梅はプイとそっぽを向いた。
「ほな!お気ばりやす!」
芹沢が薄笑いを浮かべる。
「な〜にカリカリしてんだよ」
しかし梅は無言のままスタスタと行ってしまう。
「やれやれ」
芹沢が頭を掻きながらその後を追おうとしたとき、近藤勇が引き止めた。
「芹沢さん、ちょっといいですか」
「なんだよ、見ての通り取り込み中だ。手短かに願うぜ?」
梅の朱が差した細いうなじを気にしながら、芹沢が迷惑そうに振り返る。
土方がわざと聞こえるように舌打ちした。
「ちぇ、いい気なもんだな」
近藤は険悪な雰囲気など気づかぬ態で続けた。
「歳、山南さんも」
山南敬介が顔を上げる。
「我々もですか?」
「ああ。それと平助、新見さんを呼んできてくれないか」
「わかりました」
藤堂平助が立ち上がったのを機に近藤は原田たちを隣の四畳半に追い立てた。
「てなわけでな、おまえらはちょっと席を外してくれ」
「おいおい、そりゃねえだろ!」
原田と永倉が声をそろえたときには襖はピシャリと閉じられていた。




