祈り 其之参
阿部慎蔵の脳裏には、苦い記憶が呼び起こされていた。
洛北の賭場で会った男の顔とともに。
そう。あれは二年前の常陸国。
天狗党の前身、玉造勢と関わった消し去りたい過去が。
安政の大獄が吹き荒れたあと、水戸は真っ二つに割れた。
あの粕谷新五郎がいた長岡勢ら、あくまで攘夷の実行を主張する者たち、
そして幕府に恭順を誓うもう一方は、諸生派と呼ばれた。
時に万延元年(1860年)。
その長岡勢が壊滅し、故郷玉造に逃げ帰った芹沢鴨らは、
再起を期して同志を結集し、異人たちが闊歩する横浜に攻め込むべく、玉造勢と呼ばれる一大勢力を築きあげた。
その頃の芹沢鴨は、まだ下村嗣次と名乗っていた。
往時は水戸の参政として腕を振るった武田耕雲斎の下、玉造を拠点とする玉造勢は、天狗組、天狗党などと名乗るようになり、
下村は300人を従える大幹部に上り詰めていた。
いつしかその腹心となっていたのが、新見錦こと新家粂太郎である。
吉成の道場に出入りしていた阿部慎蔵が、その下村嗣次、新家粂太郎らに引き合わされたのも、この頃のことだった。
だが、巨大化した天狗党も、所詮は体制に盾突く反主流に過ぎない。
すなわち、軍資金の出処を持たなかった。
窮した彼らが目を付けたのは、小江戸と呼ばれるほど栄えていた佐原の豪商たちだった。
玉造から潮来街道を南下した玉造勢の軍は、潮来宿に駐留して、
佐原や、諸藩の蔵屋敷が建ち並ぶ潮来など利根川流域の町を次々と蹂躙し、
暴虐の限りを尽くした。
折しも桜田門外の変では、長岡勢の残党が憎き井伊直弼の首をとり、勢いづいた彼らの大義は、もはや制御が利かなくなっていた。
芹沢の大鉄扇は、なに者からも解放された力の象徴だった。
意に沿わない商人は、容赦なく大鉄扇で打擲する。
「大将、ここは天領(徳川将軍の直轄地)だぜ?これじゃあ野盗と変わんねえ!」
尽忠報国の志に共鳴し、天狗党と行動を共にしていた阿部は、何度も芹沢の言動に異を唱え、そして黙殺され続けた。
彼は、玉造勢の人々にとって所詮異邦人に過ぎなかったのだ。
「無二無三日本魂」、
「進思尽忠」、
軍勢は、大仰な旗印を掲げ、
商家を脅しては軍資金を奪い、取り尽くすとイナゴの群れが去るように次の町へと移っていった。
とうとう天狗党内にいた若者の中からも、下村嗣次、つまり芹沢に諫言する者たちが現れた。
「いくらなんでもこれはやり過ぎです。天領で人を殺め、金を巻き上げるなど、これでは本末転倒ではないですか!」
若者三人が、声を挙げた。
芹沢は右手の人差し指と親指で輪を作った。
「しかしなあ、こう人数が膨れ上がっちゃコイツが要るのも事実だ。さてさて、どうしたもんかねえ。おまえはどう思う、新家?」
新家こと新見錦は、どこかの蔵から持ち出した派手な銅丸鎧をまとい、大袖を撫でながら満足げな笑みを浮かべた。
「ふむ…私の友は大義のため桜田門に散った。それはいい。だが、ここいらの住人だって、あの口喧しい大老がいなくなってくれて、内心ホッとしているのが本音のはずです。なのに…なのにだ、下村さん。誰も命を賭して正義を為した彼らを顧みようとしない。私にはそれが許せん。自らは手を汚さず、さりとて身を切る覚悟もなく、ただ分け前だけを主張する虫のいい輩が。
私の意見を言わせてもらえば。我々日本人は、等しく痛みを分かち合わねばならんのです。それが分からん連中には、蒙を啓いてやることも時には必要でしょう?」
「なるほど、道理だな。さて。じゃあ次は、お前たちの言い分を聞こうじゃないか」
芹沢は、三人を振り返った。
「新家さん、それは詭弁であり、押し付けだ。納得がいきませ…」
一人目が口を開きかけた時、芹沢の薙ぎ払った刀は、すでに三人の首を落としていた。
「どうした?無口な連中だな。照れちゃってんのか?」
阿部慎蔵は、血溜まりの中に突っ伏す首のない男たちを茫然と眺めた。
新見は、岩に飛び散った血飛沫を指で拭った。
その口からは、我知らず含み笑いが漏れてくる。
「…クックック。わが軍は、ほどなく鹿島神宮に達する。古事記に曰く。祭神 神建御雷神は、火之迦具土神が伊邪那岐命に十束剣で首を刎ねられた時、剣の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一人で、剣を司る武神という。なにやら暗示的じゃないか」
武装蜂起は、神のお告げとでも言いたげな口ぶりだった。
芹沢は、その言い草を気の利いた冗談ように笑った。
「バーカ。カミサマとか、そんなもん居やしねえよ。おい誰か、こいつらの代わりに意見を聞かせてくれる奴はいねえのか?」
もう誰も、芹沢に異を唱える者などなかった。
やがて。
軍は房総半島の外海、鹿島灘に至り、
縁起を担いだ天狗党は、鹿島神宮へ立ち寄った。
鰐川を渡った軍勢が大船津の船着き場に溜まっているところで、軍列を押し分け、先頭に走り寄った阿部が、また芹沢に嚙みついた。
「なぜあいつらを斬った?!」
「それは、なぜ同じことを言った自分は、まだ息をしてるんだってことか?」
海に建つ赤い鳥居を見ながら、芹沢は瓢箪徳利の酒をあおった。
「ふざけんな!」
「お前は、他所者のクセに、俺の抜き身を前に諌言する。それは死をも厭わず、自分の正義を通したってことだ。そういう人間は得難い。だが奴らは、俺にモノを言っても死ぬ心配はねえって見極めたうえで文句を垂れやがったのさ。つまりそんな言葉にはクソほどの値打もねえってこった」
まさか、褒められるなどとは思いもしなかった阿部は、返す言葉を失ってしまった。




