祈り 其之壱
一方、中沢琴に置いてけぼりを喰った阿部慎蔵はというと。
しばらくは見失った中沢琴が黒谷本陣から出てくるのを待ってあてもなく山門の辺りをウロついていたのだが、そのうち石段に座り込んでしまった。
「ふう!あんの野郎、単身で京都守護職の本陣に乗り込むなんて、まったくイカレてやがる…」
掌で顎杖をついてブツブツ言っているそこへ、立派な栗毛馬を引いて金戒光明寺の裏門から出てきた中年の男が通りかかった。
股立ちをとり、手拭いで頬かむりをしている風体を見ると、会津の厩番だろうか。
「こんなところウロついてたら、門番に怪しまれますよ」
男は石段にうずくまる阿部に、ニッと並びの悪い歯を見せて笑った。
「なにその、石段で足を挫いちまってね…」
阿部はシドロモドロの言い訳をした。
「どちらまで行かれるんです?」
「俺ぁ大阪からのお上りさんでね。親戚の墓参りに来てみたが、おっかない門番が立ってやがるし、引っ返して因幡薬師のトラでも拝んで帰ろうかってとこだよ」
「二条城まで行くからお乗りなさい。川向こうまでお送りしましょう」
男は馬の鞍をポンポンと叩いてみせる。
「客なら他を当たりな。あいにく、手元不如意ってやつでね」
「金なんか取りませんよ」
永らく人の親切などというものとは縁のない生活をしていた阿部は、あからさまに厚意の裏を勘ぐる疑わしげな目つきで厩番を見上げた。
「…いやいや!やっぱ、そりゃ不味いでしょ!だってこりゃオトノさんの馬じゃないの?」
「いいから!」
男は阿部の警戒を解くように、ふたたび柔和な笑みを浮かべてみせる。
「どーぞ、お気づかいなく」
「勝安房守の一件で長州とツルんだというのは貴方でしょう?」
「!」
阿部はギクリとして口を開けたまま固まった。
以前関わった旗本暗殺未遂の一件を知られている。
厩番は、阿部の眼を見ると、掌を突き出し、一歩後ずさった。
「おおっと、いきなり斬りつけたりしないでくださいよ。敵ならこんな開けっぴろげに話さない、でしょう?」
「…」
阿部のほうも、逃げ去るべきかと逡巡したが、このまま男と別れてしまってからアレコレ思い悩むのも寝覚めが悪い。
「あんた、いったい俺をどこへ連れてく気だ?」
「いいから、お乗んなさい」
男の言葉は柔らかいが、それで拒絶を許さない断固たる意思を感じさせた。
どうやら言うことを聞くほかなさそうだ。
観念して渋々鞍に掴まると、男は馬の脇腹を軽く叩いて進むよう促した。
「まあまあ、そう警戒しなさんな。なにも貴方をどこぞの蔵に監禁して締め上げようなんて気はありませんから。ちゃんと町で降ろしてあげますよ」
「だが、あんたは京都守護職の人間だろ?俺をしょっ引く義務があるんじゃねえのか?もちろん俺はそんなことやっちゃいねえし、仮にあんたの言うことがホントだとしたらって話だがな」
栗毛馬は、緩やかな歩調で小さな運河、高瀬川沿いを南に進んでいく。
「ハハ!そりゃ確かに会津の微禄を食む身ではありますがね、たかが厩番ですよ」
「たかが厩番」が未遂とはいえ旗本殺しの計画を知っているはずがない。
阿部が疑わし気な眼つきで男を睨みつけると、男は口をへの字に曲げ、肩をすくめた。
「私も含め、会津の者は皆、この下らない諍いの矢面に立たされた殿が、これ以上余計なイザコザに巻き込まれるのを望んじゃいません。勝安房守の一件をお耳に入れれば、お立場上、犯人を調べないわけにもいかない。となれば、攘夷の決行でようやく協調の道筋が見えてきた長州と無用の軋轢を産むことになります。ま、忠義にも色々あるってことですよ」
「はあん?そんな説明じゃ、納得いかねえな」
川べりで何かをついばんでいた雀の群れが馬に道を譲るように散ってゆく。
「納得いこうがいくまいが、政治って奴はそういうものなんですよ。私はね、水戸の口利きで長州にくっついて馬関に向かうつもりなんです。おかしな話でしょう?本来なら親藩の水戸が長州を諌めるのが筋だというのに、彼らは逆に毛利を煽っている始末です」
「ちょっと待て…あんた、黒船とやりあう気かい?」
琴と喧嘩して以来、遣る瀬無い義憤に悶々としていた阿部は身を乗り出した。
だが厩番は、馬鹿馬鹿しいという風に鼻を鳴らしただけだった。
「フン。行きたくて行くわけじゃない。会津としては、彼の地で何が起きているのか、知っておく必要があるんですよ。それもこれも、元凶は、開国が国益に適うなどと大樹公に要らぬ知恵をつける輩のせいだ」
「…」
阿部の脳裏を過ったのは、あの夜の、勝海舟の妙に落ち着き払った態度だった。
その腑に落ちた顔を見て、男は頷いた。
「つまり、そういうことです」
要するに会津の大多数の藩士にとって、勝海舟などどうなろうと構わない、むしろ居なくなってくれた方が助かるということらしい。
そして、表立って攘夷派に与する者以外にも、勝が生きていることを快く思っていない連中が大勢いることを、彼自身もよく弁えているのだ。
やがて馬は鴨川から高瀬川へ水を引き込む樋ノ口(取水口)辺りで歩みを止めた。
以前、阿部が大立ち回りを演じた二条通り沿いにある長州屋敷のほど近くだ。
男は小さな門構えの屋敷を見やった。
「ちょっと寄り道していきたいので、ここいらでいいですか」
もちろん、阿部は解放を歓迎した。
「あんがとよ。馬番の兄さん」
阿部は男に手を貸してもらいながら馬を降りる間も警戒を解かず、一刻も早くその場を立ち去ろうと形ばかりの礼をして後退った。
「いえいえ。何を探ってるのかは存じませんが、黒谷にはあまり深入りなさらぬよう」
「え?だから人違いだよ。俺はそういうアレじゃ…!」
「引きずってる足が逆です」
厩番はニヤリと笑って捨て台詞を吐きながら背を向けた。




