Trouble Sleeping Pt.2
「クソ!クソが!この脚さえ思い通りに動けば!」
爪哇咬吧はねじ曲がった膝に拳を打ちつけながら毒づいた。
琴はその様子を見て、わずかに目を細めた。
「…仙吉にやられたのか」
「余計なお世話じゃ!」
「勘違いするな、私は奴の居場所が知りたいだけだ」
「知ってどないする」
「どう?」
問い返す琴の眼を見上げたとき、爪哇咬吧は、にわかに背筋が凍りつくような感覚に襲われた。
かつて、腕力にモノを言わせて賭場を荒らし回った無法者は、その時、初めて怯むという言葉の意味を理解したのだった。
「…まあええ。ヤツなら、このまま川を上っていった大文字町に一家を構えとる。けど、こんだけは言うといたるがな、奴には気ぃつけえ。気のええゴンタを装っちゃおるが、ありゃ、ホンマもんのワルじゃ。こんな梅雨時に脚の傷が疼くたんび、何度眠れん夜を過ごしたか知れん。
ほんでも借りを返しにいく踏ん切りがつかなんだのは…我ながら情けない話しやが、何べんやっても適う気ぃがせんからじゃ」
爪哇咬吧はうなだれたまま、声を搾り出した。
「…忠告は覚えておこう。ありがとう」
琴は少し微笑んで、踵を返した。
そして、先ほどの菜園を通り過ぎようとした時、
一部始終を見ていたあの老人が、ボソリと声をかけてきた。
「小鉄や」
「え?」
「会津の小鉄。仙吉はんは、ここいらではそう呼ばれとる」
「会津の小鉄」
「あんたら、親分さんになんの用事か知らんがな、爪哇咬吧も言うとったやろ。くれぐれも口には気いつけえ。ありゃあ、後世に名を残す大侠客じゃ」
実のところ、阿部慎蔵も、やる事もなく都をブラブラしていた頃、夜の繁華街で、似たような噂話を小耳に挟んだことがあった。
― 近ごろ都の裏社会で、頭角を現している男がいる。
噂によれば、
男は数年前、当時悪名高かった賭場荒らし、爪哇咬吧を完膚なきまでに叩きのめして名を売った。
謂れは定かでないが、
二つ名を、会津の小鉄―アイヅノコテツ―という。
だが阿部も、あの夜、仏生寺と渡り合う仙吉を見るまでは、その噂と客引きの小男を結びつけて考えることはなかった。
しかし、会津の小鉄には際立った特徴があった。
頰に残る刀の傷跡。
それを思い出したあと、阿部がその正体にあたりをつけ、
ここまで琴を案内するのに、さほど時間は掛からなかった。
阿部は、土手を登りきったところで琴の背中に追いつき、老人を振り返った。
「あんな石塊だらけの河原をほじくり返したところで、なにが出来んだか」
「いま種を撒けば、ナス、枝豆、スイカ、自分ひとりが食べるくらいのものなら獲れるさ。そう言うあなたは、自分の手で何かを作ったことがあるのか?」
非難めいた問いかけに、阿部は鼻を鳴らして不満を表明した。
「このご時世に、晴耕雨読なんざ腐れ儒者の戯言だぜ。武士たるもの、今こそ刀をとって民草の盾となるべきだろうが!例えば、あのジジイだ。あとな、言っとくけど、今回の件もまた貸しだかんな」
「…やれやれ、立派な心がけだな」
琴は渋い顔をして、また歩調を速めた。
同日、明けの八つ半(11:00am)
都の北、修験道の本山として名高い聖護院門跡のほど近く。
「だから!」
琴は、そこで言葉を切って、真っ黒なその瞳で空を仰いだのち、大きくため息をついた。
「…どうして、まだついて来る?」
「別にいいだろ!これは好意ってやつだ。明日にも大坂に立とうって時に、お前がモタモタしてっから、手伝ってやろうってんじゃねえかよお!」
あいも変わらず琴につきまとう阿部が、その背後で恩着せがましく喚き散らした。
「大坂には行く。そのためにもサッサと用事を済ませてしまいたいのに、あなたがいると足手まといだと言ってる」
ズバリと切り返されたが、阿部は気にも留めない。
「おい!言葉に気をつけろ!だいたい、あいつの正体に行き着いたのは誰のおかげだと…」
そう言って阿部が指さしたのは、
八間(約15M)ほど向こうを歩く、木綿の法被に股引姿の小柄な男だった。
「何度言えばわかる。声が大きい」
琴は声を押し殺して阿部をにらんだ。
二人が尾行しているのは、無論、会津の間者を名乗る男、上坂仙吉である。
なぜ琴が、大坂行きを先延ばしにしてまで仙吉にこだわったのか。
それは、彼女自身にもよく解らなかった。
仙吉が長州にまつわる諜報に従事していることは疑いようがない。
清河八郎のために、その活動を探るという口実はたしかに成り立つ。
しかし、そのためばかりとも言えなかった。
洛北の賭場でひと騒動があったあの夜、
仙吉は、仏生寺弥助と浪士組筆頭局長芹沢鴨、そのどちらかを見張っていたのは間違いない。
彼は道化を演じて、攘夷派の元締めと思しき没落貴族の懐に潜り込むことに成功していた。
一方で、"不敗の上段"と恐れられた仏生寺を相手に一歩も引かない気迫で、一触即発の危機を納めて見せた。
つまるところ琴は、一見気のいいこの男に、仕事抜きでひどく興味を覚えたのだった。
あるいは彼女のボヘミアン的な気質が、仙吉の持つ何かと共鳴したのかもしれない。




