Tumbling Dice Pt.5
琴は、芹沢達の後を追うように、門を出た。
すると、先ほどの傷の男が二人の後ろ姿をじっと見つめている。
琴は、島原大門の一件以来、仏生寺の周辺に漠然と自分以外の気配を感じていたことを思い出していた。
頬傷の男は、音もなく芹沢たちの後をつけていく。
琴はさらにその後方を、一定の距離を保ちながら追跡した。
芹沢と仏生寺は、岩倉村から街の中心部に向かって、かれこれ四半刻も無言のまま歩いていた。
芹沢が思い出したように口を開いたのは、まもなく禁裏に突き当たろうという頃だった。
「…さっきのアレはどういう意味だ」
「さっきの?ああ、わたしはただのお使いだから、何のことやら。知っての通り、読み書きは苦手でね」
仏生寺の返事は、しらばっくれているようにも、そうでないようにも取れる。
「あの男は…」
芹沢は質問を重ねようとして、思いとどまった。
「ま、いいや。それよりとんだ散財だったぜ、先生」
「悪かったね。だが、お前が止めなきゃ金は取り返せた」
仏生寺も岩吉という男については、それ以上触れようとしない。
「俺が言うのもなんだが、無茶しすぎだ」
「あのまま成り行きに任せても面白かったのにな」
芹沢は苦笑いして肩をすくめた。
「ちぇ、今の俺には立場ってもんがあってな。ヤクザのケンカに巻き込まれるなんてのは、さすがに具合が悪いんだよ」
「そうかい。芹沢も偉くなったもんだな」
芹沢は、急に真顔になって声を潜めた。
「…つーかよ、あの傷の男、ありゃヤバいぜ?あんなのと先生がヤリあえば、何人巻き添えを食うか知れたもんじゃねえ」
「そりゃあ、買いかぶり過ぎだよ」
仏生寺は笑い飛ばしたが、それも自身のことを言ったのか、相手のことなのかは、判然としない。
芹沢は掴みどころのない会話に仏生寺の正気を疑い始めた。
そして、こめかみに当てられたその指先が小刻みに震えているのに気がついた。
「おいおい先生、大丈夫かよ?顔が真っ青だぜ?震えてるじゃねえか」
「ここんとこ、体調が優れなくてね。どうやら物の怪に憑りつかれたらしい」
「よせよ。いつからそんなに迷信深くなった」
「本当さ。昼間から見えるんだ。ほら、あの物陰にも」
仏生寺は、背後に視線を流した。
芹沢がその先を目で追うと、二人から数間離れた建物に小さな人影がスっと身を隠すのが見えた。
「ハ!なるほどね。俺にもよおく見えたぜ?」
頭に血が上った芹沢は、刀に手をかけた。
「よせ。あれを斬るのはわたしじゃなきゃダメなんだ」
引き返そうとする芹沢の腕を、仏生寺が掴んだ。
腕に伝わるその握力で、芹沢は仏生寺の才気がまだ錆びついていないことを確信した。
「じゃあせめて教えてくれ。ありゃ長州か?先生、やっぱりあんた、浪士組に…」
そのとき、
「キーッ!キーッ!ケケケケ!ギャーッ‼」
薩摩屋敷に棲む”寺田屋の亡霊”の声が、芹沢の言葉を掻き消した。
「ほら、聴こえたろ?物の怪の声が」
仏生寺は片目を瞑ってみせた。
「今のは塀の内側から聴こえたぜ?いったい、そのお化けってのは何匹いるんだい」
「なんなら、確かめてみるかい」
二人は申し合わせたように角を曲がった処で立ち止まると、背後に意識を集中し、耳を澄ませた。
しかし、尾行者が近づく気配は、それきり消えてしまった。
「…向こうも気付きやがったか」
芹沢が気の抜けた様子で肩を落とす。
「お前のおかげで厄払い出来たのかもな」
仏生寺は神主の養子に入った芹沢に引っ掛けて冗談めかしたが、芹沢は嫌な顔をしただけだった。
「よせよ。虎だのオウムだの幽霊だの、子供騙しのハッタリにはウンザリだぜ。見えてるってことは、つまり叩っ斬りゃあ血も出るってこった」
「どうかね?わたしに見えてるもの全てが、お前にも見えるとは限らんさ。その逆もまた然り、だ」
「どこぞのお公家さんとつるむようになって、あんたも思わせぶりなことを言うようになったな」
「そのままの意味だよ。亡霊はいる。どうやら、おまえも厄介なお化けに魅入られたようだぜ?」
「ケッ、仏生寺弥助ともあろう者が、もう死んじまった人間に怯えてるのかよ。俺をガッカリさせないでくれ」
「別に怖がっちゃいない。こんなご時勢じゃ、この世に未練を残したまま死ぬなんて、珍しくもない話さ。俺たちにしたって、いつか、どこかの辻で誰かに斬られて死ぬんだ」
「縁起でもねえな」
芹沢は顔をそむけ、薄く笑った。
仏生寺は暗闇の中で妙に光る眼で芹沢をジッと見つめた。
「…だが、それは今日じゃない」
やがて二人は北小路(現在の今出川通)が烏丸通りと交わる四つ辻で立ち止まった。
通りの反対側には真新しい薩摩屋敷の壁が続いている。
「今日のあんたはどうかしてる。じゃあな、先生。気が向いたらいつでも来てくれ。歓迎するぜ」
芹沢は、壬生村の方角に歩き去った。
仏生寺は、その後ろ姿を見送りながら、しばらくの間そこに佇んでいた。
やがて、彼は物陰の琴に声をかけた。
「芹沢は行っちまったよ。そろそろ丑三刻だ。姿を現しちゃどうだい、幽霊さん」
琴は、尾行に失敗した仙吉が退散するのを見届けると、仏生寺のまえに無造作に身を晒した。
しばらくの間、ふたりはただ黙って対峙していた。
やがて仏生寺は照れたような笑みを浮かべて目を逸らし、頭を掻いた。
「やはりあんたか。今日はどうした?そんな格好をして」
口振りからすると、賭場にいた時からすでに変装した琴の正体を見抜いていたらしい。
だが、答えは返ってこなかった。
仏生寺は、その沈黙を自分なりに解釈した。
「なるほど、あのときの決着をつけようってわけか」
琴はニヤリと笑った。
「…まさか。実をいうと、あそこにいた目的は貴方じゃない」
「じゃ、お嬢さんも、あの“岩吉”に用事があったのかい。ヤツならまだ中で遊んでるはずだ」
「そうね…ただ、ひとことだけ、貴方に言っておこうと思って」
「だいたい察しはつくよ。せっかくの腕を無為に腐らせるなとか、なんとか。綺麗なお嬢さんの口から、そんなお説教は聴きたくないね」
琴は、握りしめた小さな拳を突き出した。
「そう。じゃあ、厄除けの御守りをあげる」
拡げた手のひらには、角の生えた馬を象った根付が載っていた。
西洋の幻獣、ユニコーン。
もちろん、琴はそれが何であるかを知らない。
しかし、十六世紀の画家ダ・ヴィンチは、ユニコーンに不摂生の寓意を込めて描いたとされるから、それは皮肉な偶然だった。
仏生寺は根付を摘まみ上げて、シゲシゲ眺めたあと、琴の顔に視線を戻した。
「お嬢さん、これをどこで?」
めずらしく驚いた様子の仏生寺に、琴は小さく微笑み、
「舶来品よ。縁起ものらしいわ」
そう言って身を翻した。
仏生寺は、口をへの字に曲げた。
「女性からの頂きものには慣れてなくてね。しかし、あんたも積極的だな」
「…安心して。下心はないから」
呆れて視線を宙に泳がせた琴は、そのとき、薩摩屋敷の塀から覗く蔵の破風に目を奪われた。
そこに描かれていたのは、○に十字を組み合わせた家紋で、馬の”ハミをとる”金具、クツワに酷似していた。
「轡十字…薩摩藩か」
その唇の端が、わずかに吊り上った。
仏生寺は根付そのものに何の興味も示さなかった。
「ふむ、益体もない」
先ほどまで亡霊の影を気にしていたはずの男が、妙に現実的な一面を見せる。
琴は振り向くと、ユニコーンを小さくゆび差した。
「だからかしら。それ、お似合いよ」




