蛇の皮 其之弐
「ちぇ、思った通りだ」
密会の現場に踏み込もうとする阿部を琴が引き止めた。
「どうする気だ?」
「決まってるだろ。行って今度こそ、あの女がやろうとしていることを止めるんだよ」
「ここまで来て何もかもぶち壊す気か」
「あの女がバラまいてる薬はな、とんでもなくヤバイしろもんなんだ。相手が誰だろうが関係ねえ。止めさせなきゃならん」
阿部は辻君から渡されたユニコーンの根付に手を触れた。
琴は釣られるようにその根付に目をやってから、顔を上げた。
「あとにしろ。いま、仏生寺に気づかれたくない」
「何をビビってる。あんたなら、奴を締め上げて、聴きたいことを聴き出せばいいじゃねえか」
「そんな簡単にいく相手じゃない。これだけは言っておくぞ。あいつには迂闊に関わらない方が身のためだ。今度ばかりは何かあったとしても、わたしじゃ護りきれない」
「おい、あんまり見くびるなよ!自分の身くらい…自分で…」
阿部は顔を真っ赤にして思わず声を荒げたが、途中で言葉を呑み込んだ。
怪しげな密会は、今の感覚で言えばものの数分で終わり、早くも仏生寺が今来た道を引き返して来たのだ。
「ちっ、あんたのおかげで、あの辻君はまたしても労せずして大金を背占めたわけだ」
「あなたはあいつの恐ろしさを理解してない」
阿部に責められた琴は険しい表情でうつむく。
「どうだかな。あんたもあの女の恐ろしさを分かってねえから、お互いさまってとこだろうぜ。だが、あとは好きにさせてもらう」
阿部は烏丸通りへ引き返してゆく仏生寺をやり過ごすと、琴の制止を振り切って飛び出した。
琴は軽く首を振って、仕方なく自身も女の目に姿を晒した。
阿部はツカツカと拝殿に歩み寄り、手拭いを目深にかぶってうつむく辻君の前で仁王立ちした。
女は随分前から足音に気づいていたはずだが、阿部が立ち止まったところでようやく顔をあげた。
「おや、また会ったわね」
「…なにを企んでやがる」
辻君は妖しく嗤った。
「別に。ただの商売さ。あたしも生きていかなきゃならないんでね」
「嘘をつけ!攘夷を叫ぶ連中を狙い撃ちしてるって言ったのはあんただぜ」
「奴らが死んだって誰も気にしないからよ。それ以上の意味なんてない。あたしはただの場末の女郎よ?天下の御政道に口を差し挟むような立場じゃないことは、いくらあんたでも分かるでしょ?買いかぶりも甚だしいわね」
阿部は帯からユニコーンの根付をむしり取って、グルグルと振り回した。
「とぼけるな!俺がこんなもんを後生大事に持ってたのはな!こいつを見て寄ってくる奴らにお前と手を切れと言ってやるためさ」
女は挑みかかるように阿部を睨みつけた。
「ハッ!京ぐらしでとうとうあんたも尊王攘夷とやらにかぶれちゃったわけ?」
「そ、そんなんじゃねえ!」
辻君は顔を紅くする阿部をせせら笑った。
「けど、ご生憎さまね。世間が期待してた攘夷祈願の行幸とやらも、将軍さまときたら仮病を使って逃げ出したんじゃなかったかしら?」
この月の11日、孝明天皇は、岩清水八幡宮へ攘夷の成功を祈願をするために行幸している。
もちろんそれは、単なる神頼みではない。
その行事には第十四代将軍徳川家茂も同行し、神前で帝より節刀(天皇が敵地へ赴く総大将へ授ける刀。任命書的な意味あいを持つといわれる)を賜ることになっていた。
それはすなわち、国家が一丸となって対列強にあたると言う決意表明に他ならない。
しかし当日、そこにあって然るべき徳川家茂の姿がなかったのである。
巷には様々な憶測が乱れ飛んだ。
二の鳥居の向こうから、姿の見えない子供らの騒ぎ声が聴こえる。
「もーいーかい?」
「まーだだよ…あ!」
「なあ!来てみ!蛇の抜け殻や!」
「ほんまや!すごい!」
「な?でかいやろ!」
一瞬、その声に気を取られていた阿部は、ふたたび反抗的な眼で辻君をにらみ据えた。
「仮病だと⁈名代(代理)として一橋慶喜公が同行されたはずだ」
「その一橋公だって怪しいもんね。噂じゃ、直前になって具合が悪いとか見え透いた言い訳をして、天子様の節刀を受け取らなかったって言うじゃない」
「う、うるせんだよ!てめえは!」
阿部は女に根付を投げつけた。
「あらあら、それは万病に効くって舶来の縁起物なのよ。もう少し大切に扱って欲しいわね」
「何が縁起物だ!笑わせるな」
「蛇の抜け殻とか、そんなようなもんね。あんたが幕吏(幕府の役人)に斬られたとき、それで傷口をさすればいいわ。将軍様のご威光程度の効き目はあるでしょうよ」
辻君は取り乱す阿部を嗤いながら身を翻し、拝殿の陰にスッと姿を消した。
その真っ白なうなじを見て、中沢琴は女が見た目より随分若いのに気がついた。
「やりこめられたな」
琴は拾い上げたユニコーンの根付を差し出しながら冷やかに口元をゆがめた。
「いらねえよ、そんなもん!畜生!なんでだ‼︎なんで大樹公は態度をハッキリさせねえ⁈」
「いい加減、現実を見たらどうだ。将軍は節刀を拒んだ。これ以上ハッキリした答えなどあるまい」
しかし、琴にとってもそれは他人事ではなかった。
恋人である山南敬介もまた、徳川将軍家を信じて京まで来た人間の一人なのだ。
いったいこの先、浪士組は、いや、日本という国はどうなってしまうのだろう。
「バカな!征夷大将軍ともあろう者が、万世一系の国土が蹂躙されようってときに、そのサマをただ指をくわえて見ているというのか!」
「…そんなことは知らん。わたしはもう行くぞ」
琴は素っ気なく言い捨て、仏生寺が歩いていった方角に脚を向けた。
「好きにしろ!くそ!」
阿部は拳を握りしめ地面に毒づいた。
参道を家路につく子供たちが駆けてゆく。
紅い夕陽に照らされたその輪郭を阿部はただボンヤリと眺めていた。
先頭を走る少年が、なにかを振り回して、はしゃいでいる。
それは、奇しくも辻君が将軍家に当てこするために引き合いに出した蛇の抜け殻だった。
古来、蛇は神の使いと崇められてきた。
脱皮を繰り返すこの生物は、死と再生の象徴とも言われ、その抜け殻は富と幸運をもたらすとされる。
しかし…。
「…俺はただの抜け殻を拝んでる間抜けなのか…」
阿部は遠ざかって行く子供たちの影に問いかけた。




