禁断の果実 其之参
だが、その程度の皮肉が、梅ともあろう女に通じるはずもない。
彼女は思わせぶりな上目遣いで微笑み返すと、俄然彼らの気を引く話題を提供した。
「新見せんせの話で思い出しましたけど、じつは、昔の芸妓仲間から面白い話を聞きましてなあ。三本木の吉田屋に会津はんの間諜が忍び込んでいたとかいなかったとか」
新見は折り曲げた人差し指を顎の先に触れて、なにかを思い出そうとするように目を閉じた。
「吉田屋…仏生寺さんが出入りしていたという料理屋も、確かそんな名前だったな」
「なんだそりゃ」
そんな話は寝耳に水の芹沢は眉をしかめた。
「おや、初耳どすか?会津お預りの浪士組筆頭局長がご存知ないとは、おかしな話どすなあ。やっぱりただの噂やろか」
新見は険しい顔でうつむいた。
「会津が内偵を進めていたのが本当なら、その吉田屋とやらは臭いな。にしても、またしても我らは置き去りか」
芹沢が考え込むのを見て、梅の挑発はますますエスカレートした。
「せ〜んせ、うちの考えすぎかも知れへんけど、浪士組は会津公からあんまりアテにされてへんのと違いますかいなあ」
「くだらん憶測にすぎん」
新見はこれ以上ここにいてはトバッチリを食うとばかりに肩をすくめて、部屋へ戻っていった。
三人の会話を盗み聴きしていた井上源三郎と永倉新八は、新見が近づいて来るのを気取って、あわてて襖の影に引っ込んだ。
「なにやらキナ臭い話になってきたな」
井上が小声で言うと、永倉はその袖を引いて含み笑いをした。
「けど、あの二人、なんだか一触即発って雰囲気じゃねえ?あ〜面白いったりゃありゃしない!」
呑気に喜ぶ永倉に、井上はやれやれとため息をついた。
ところが永倉の期待は肩透かしを食った。
例によって逆上するかに思われた芹沢は不敵にも笑ってみせたのだ。
「くっくっく、かまやしねえよ。俺も別に会津なんぞアテにしてねえからなあ」
梅は、目の前にそびえ立つ芹沢をあらためてシゲシゲと眺めた。
青白い顔とは対照的に、その体躯は精悍そのもので、まさに狼たちの王にふさわしい。
彼は、火薬のように危険で、不穏な雰囲気をまとっていた。
梅はそのことに初めて気がついたようにハッとした。
「なあに紅くなってんだよ。おいおい、おまえさんこそ俺に惚れたとか、勘弁してくれよ」
「ア、アホ言わんとおいて!」
芹沢に見惚れていた梅は、頬を染めながら叫んだ。
「んじゃ、一晩付き合ってやっから、借金をチャラにしてもらおうか」
「あ、あかんいうて!」
腰をかがめて顔を覗き込む芹沢を、梅は突き飛ばした。
「うわ!」
芹沢はバランスをくずして尻餅をつく。
二人は無言のまましばらく目を見合わせていたが、やがてどちらからともなく大声で笑い出した。
襖の影からそのやりとりを伺っていた井上は、あきれるのを通り越して感心してしまった。
「…おいおい、借金取りと仲良くなってるよ…確かにありゃ、とてもじゃないが真似できんな…」
もちろん、永倉にそんな寛容さはなかった。
「クソッタレw w wッ!一番つまんねえ結末じゃねえかよ!あw w wおもしろくね!あw w wうらやまし‼」
歯ぎしりをしながら、井上を置いてサッサといってしまった。
訳もわからぬまま付き合わされた井上は、棒立ちのまま唖然とするほかない。
「…なんて自分勝手なやつだ…」
そのころ、縁側を歩いていた新見錦は、所在なげに庭をうろつく佐伯を見て足を止めた。
「なにをしている」
佐伯は疲れた様子で、愚痴をこぼした。
「筆頭局長さんが、急に酒を燗で飲みたいちゅうて、わがままを言い出すもんやさかい往生してますのや」
新見はふと思いついたように斜め上へ視線を漂わせた。
「火鉢が奥座敷にあったぞ。あれを借りてくればよかろう」
「ホンマですか?ほな、さっそく」
「おい、どこへ行く」
台所の方へ足早に向かおうとする佐伯を、新見は引き止めた。
「どこて、一応、奥方に断りを入れとかな」
「やめとけやめとけ、火鉢と言っても高そうな唐銅(青銅製)のやつでな。頼んでも出し惜しみされるのが落ちだ。んなもなぁ後から返しときゃ問題ない。なにより今日の芹沢さんは機嫌が悪い。待たせると、またうるさいことになるぞ」
「そ、それもそうですな。ほんなら」
佐伯はそそくさと草履を脱ぐと、大股で奥座敷に向かい、障子越しに声をかけた。
「…失礼します~」
…案の定、返事はない。
佐伯は誰もいない座敷にそっと足を踏み入れると、床の間に向かって断った。
「芹沢せんせがどうしても燗酒が飲みたいゆわはるさかい、ちょっとお借りしまっせ~…」
この男には、もともと手くせの悪いところがあるらしく、ふところに包み込むように火鉢を抱えると、何食わぬ顔でそのまま芹沢の居室に持って行ってしまった。
一方、新見錦は自室のまえで八木家の長男秀二郎とバッタリ出くわした。
「お早いお帰りで」
すれ違いざま、秀二郎が例によって皮肉を言うと、新見は何事か企む顔でうやうやしく頭を下げた。
「そういえば、随分高価なものをお貸しいただいたそうで。佐伯も重宝してましたよ」
「え?」
秀二郎は怪訝な面持ちで振り返ったが、その時にはもう新見は部屋に入った後だった。
しばらくのち。
勤め先の青蓮院から帰ってきた屋敷の主、八木源之丞は、奥座敷の襖が中途半端に開いたままになっているのに気づいて、何気なく中をのぞきこんだ。
「ん?」
なにかが足りないような気がする。
源之丞は、首を傾げた。
「お帰りなさい」
座敷の前で佇む源之丞に秀二郎が声をかけた。
「ああ」
「なにをボーっとつっ立っとるんです」
「いやなに…」
源之丞のハッキリしない態度にしびれを切らした秀二郎は、先に口を開いた。
「父上、奴らになにを貸したんか知らんけど、人がええのもほどほどにしとかなあきませんよ」
「なんのこっちゃ」
源之丞はキョトンとして尋ねたが、秀二郎はずっと芹沢たちの部屋のほうを睨んでいる。
「ま、父上がそれでええなら、私が口を挟むことやないけど、あいつらに貸したもんはくれてやった思といたほうが賢明ちゅう話です」
源之丞にはまだ何のことやら分からなかったが、とにかく秀二郎が浪士組を非難していることだけは確かだった。
「まあ、そう目くじらを立てんでもええがな。ゆうたかて、帝のため、大樹公のために働いとる人らや。なんであれ、ちゃんと返してくれはるんやったら、この家のもんをどう使うてくれても、わしはいっこうにかまわへん」
「連中に、ちゃんと借りたもんを返す律儀さがあったら、こう毎日毎日借金取りが押しかけて来るわけあらへんでしょ」
秀二郎が呆れてため息をついたとき、狙いすましたように、美貌の借金取りの嬌声がたなびいた。
源之丞は息子と目を見合わせ、妙に艶かしいその余韻に、耳をすませる。
「そりゃ道理やけど、どうしたわけやら貸しとる方はなんやご機嫌やで?」




