禁断の果実 其之壱
同日のこと。
「おっと!」
浪士組幹部、井上源三郎は、いきなり目の前に飛んできた物体を反射的に受け止めた。
わけあってその日の稽古を早めに切り上げた彼は、一杯の水を求めて勝手場に向かおうとしていたところだった。
見れば、手のひらには大振りな信楽の徳利が収まっている。
「…なんだ?」
井上が首をかしげたと同時に、怒鳴り声が響いた。
「俺ぁ熱燗で飲みてえつったんだよ!」
声のした方向を目でたどると、ちょうど庭に面した障子に丸い穴が空いている。
井上の記憶によれば、そこは浪士組筆頭局長、芹沢鴨の居室だった。
「…ははあ、なるほど。あそこから飛んできたわけか」
障子の穴と徳利をかわるがわる見比べていると、その部屋から猫背の男が飛び出してきた。
「へい。ただいま!」
つい先ほどの立ち会いで、佐々木愛次郎に投げ飛ばされたばかりの佐伯又三郎である。
佐伯は井上の姿など目に入らないらしく、ブツブツ言いながら、廊下の突き当たりを玄関の方へ曲がっていく。
「ちっ、帰って来るなりこれか。そんなこと言ったって、台所の火は煮炊きに使ってんだから、しょうがねえじゃねえかよう…」
どうやら今日は佐伯又三郎にとって厄日らしい。
しかし彼がわがままに振り回されているということは、つまり、芹沢にも少し回復の兆しが見えてきたということだ。
かと言って、機嫌がいいようにも見えなかったが。
「やれやれ、元気になったらなったでこれか…」
井上が苦笑いして、ふたたび足を踏み出したとたん、背後からヌッと腕が伸びて、うしろ襟を引っ張られた。
「うわっ!」
「ダ〜メだって、そっちは!」
それは永倉新八の声だった。
「脅かすなよ。土方さんが新入りの考試(実技試験)に行っちまったから、交代が来るまであたしが面接をしなきゃならないんだ」
井上が振り返って抗議すると、永倉は有無を言わさず腕をつかみ、
「なら方角がちがうだろ?」
と、アゴで離れの方を指した。
「その前に水を飲みたいんだよ」
「そんなの、あとあと!」
「わからんなあ。どうして⁈」
「今ノコノコ玄関に出てってみろ!あんたが借金取りに捕まるんだぞ」
その言葉に、永倉の腕を振りほどこうとしていた井上の動きが止まった。
「…そりゃあ、おまえ…不味いな」
「だろ?」
二人がうなずきあったとき、目の前の廊下を八木家の次男坊勇之介が走り過ぎてゆき、芹沢の部屋の前でピタリと立ち止まった。
「せりざわせんせい!おきゃくさんが来たはる!」
しばらく間を置いて、中からものぐさな応えが返ってきた。
「…おおう、ありがとよ」
「ここ、アナあいてるで」
「うるせ!あっちいけ!バ〜カ」
勇之介は、そのセリフが何故か気に入ったらしく、
「アハハ、うるせバーカ、バーカ!うるせば~か!」
とオウム返しに叫びながら走り去って行った。
「ち、めんどくせえなあ、どうせ取り立て屋の類だろ。勇之助のヤツにも借金取りと客のちがいくらい教えこんどかなきゃな…」
総髪のてっぺんをかきむしりながら部屋を出てきた芹沢が、悪い大人の見本のような台詞を吐いて、めんどくさそうに玄関のほうへ歩いていく。
永倉は歯をむき出して笑うと揉み手をした。
「さ~・て・と!面白くなってきやがったぞお」
「だからなにが?」
いかにも人の良さそうな井上の目には、ありありと困惑の色が浮かんでいる。
永倉はお構いなしにつかんでいた腕を引いた。
「源さん、いくぞ!見物だ」
「だから、あたしゃ忙しいつってんだろ」
しかし井上がそう言った時には、すでに縁側の沓脱石に足をかけるところまで引きずられていた。
「んなもなあ、山南の旦那にでも任せときゃいいだろ。その借金取りてのがさ、これまたスンゲー美人なんだ。こんな対決は滅多に拝めねえぞ」
「なんだそりゃ?だいたいな、仮にその女が静御前とか小野小町なみの美女でも、今のあたしにゃそれが金を取り立てに来た人間なら、般若の面にしか見え…」
「ツベコベうるせーな、可愛娘ちゃんに貴賤ナシなんだよ!」
「あ、あのなあ、別にそういうことを言ってるんじゃ…」
抗議もむなしく、井上は無理やり縁側に引っ張り上げられて、足をもつれさせながら草履を脱いだ。
というような、どうでもいいことはさておき。
ずっとふさぎ込んでいた芹沢鴨を立ち直らせたのは意外な相手だった。
「お酒どすか。昼間っから、ええご身分どすなあ」
辛辣な言葉を浴びせたその相手こそ、誰あろう菱屋の借金取り、梅である。
「…やっぱり借金取りかよ」
その声でようやく梅に気づいた芹沢は、露骨に嫌な顔をした。
「局長はん、今日で五日どす。約束通り、払ろてもらいましょか」
前に来たときと同じように玄関のかまちに腰掛けて、しかつめらしく腕を組む梅を見て芹沢は苦笑した。
その態度がさっそく梅の気に障ったらしい。
「歓迎されてへんのは重々承知どすけど、今日という今日は返してもらうまでテコでも動きまへんさかいなあ」
芹沢はこめかみの辺りを掻きながら、宙に視線を漂わせた。
「じゃあ好きなだけそこにジッとしてなよ」
梅はピクリと眉を動かした。
「なんやそれ⁈『掛取り万歳』(落語のネタ)かなんかのつもりどすか。ゆうときますけど、そんな落語みたいな手ぇ、うちには通用しまへんえ」
芹沢は吹き出した。
「おっと、モトネタがばれてら。なあ、今日は忙しいんだよ。今度にしてくれ」
「芸のない。それ、前とおんなし言い訳やおへんか」
梅は飽きれた顔でプイと横を向き、玄関の外に視線をうつした。
そこには汗ばむような陽気のなか、相変わらず得体の知れない浪士たちが順番が来るのを待っている。
もっとも肝心の面接官、井上源三郎が襖の陰から芹沢と梅の様子を伺っているのだから、彼らがいくら待っても行列が前に進むはずがなかった。
気の荒い浪士たちはイライラをつのらせて殺気立っている。
「いつまで待たせるつもりだ」
「もったいぶりやがって!」
行列のあちこちから不満の声が聴こえはじめた。
「…妙だな」
土方歳三と面接官の役目を交代した山南敬介は、先ほど入隊試験に合格したばかりの佐々木愛次郎を伴い、屯所を案内しがてら八木家の門前までやってきて首を傾げた。
行列の後尾は敷地内に収まりきらず、坊城通りまで溢れている。
山南はちょうど門をくぐったところで佐伯又三郎を捕まえて声をかけた。
「この混雑はどうしたわけです?土方さんの話じゃ井上さんが間をつないでくれているはずなんだが」
「さあね、そう言うたらそうですなあ」
佐伯は行列のことなど今初めて気づいたとでもいうように、気のない返事をした。
玄関から二人の立ち話を見咎めた芹沢鴨は、怒りを抑えた声で佐伯を急かした。
「おいおい佐伯又三郎、そんなとこでなに油売ってやがる」
佐伯は飛び上がった。
「き、聞こえましたやろ?悪いけど、大将がご機嫌ななめで、こっちもそれどころやないねん」.
慌てて応えると、山南には目もくれず屋敷の裏手へ廻ってしまった。




