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幕末カタナ・ガール  作者: 子父澤 緊
約束之章
151/404

継承者たち 其之参

その合図を待っていたようにふすまが開き、二人の女中が酒を運んできた。

「では、おしゃくをお願いしようかな」

仏生寺が女中にさかづきを差し出したとき、つづいていかにも聡明そうめい面立おもだちの芸妓げいぎが入ってきた。

「まあ先生、下女げじょのおしゃくで飲むやなんて止めとおくれやす。桂からようようわれてますのやさかい」

そう言って仏生寺のかたわらに座ったのが、桂小五郎の愛人、幾松いくまつだった。

桂の留守を預かる身として、代わって仏生寺をもてなそうというわけだ。

「これは、美しい」

仏生寺は上機嫌じょうきげんで空の盃を軽く持ちあげた。

女中たちはおそれ多いとでもいうように三つ指をついて退出した。


「そうそう、桂から預かりもんがあるんどすえ」

酒をぎ終えた幾松は、徳利(とっくり)かたわらにおいて、(ふところ)から二通の手紙と小さな包みをとり出した。

包みは一目で小判とわかる形をしている。

「ほう。桂先生はわざわざ小遣こづかいをくれるために私を呼んだんですか?」

「このお金はこちらまで足を運んでいただいた迷惑料と思うてください」

幾松はゆっくりとまばたきしてそう言うと、ほんの一瞬、久坂と目配めくばせを交わした。

仏生寺はそれを見逃さなかったが、何事なにごともなかったように伏し目がちではいを傾けている。

「ずいぶん気前きまえのよろしいことで。ですが、この手紙は?お恥ずかしい話、わたしゃ字が読めなくてね」

幾松はその告白を聞き流すと、話をはぐらかすように、含み笑いをした。

先生せんせはたいそう賭け事がお好きやてうかがいました。このお金は、遊興ゆうこうの軍資金にしとくれやす」

「こんな分厚ぶあつ寺銭てらせん(ここでは賭博の手数料の意味)は、ツボ振りも見たことがないでしょうな」

「桂の心付こころづけどす。ただし、先生せんせ。このお金は先生せんせ馴染なじみの岩倉村にある賭場とばで使うて欲しいんどす」

「そういやあ、あそこは桂先生に紹介してもらった賭場とばでしたっけ。生真面目きまじめな先生がそんなところをご存知ぞんじとは不思議に思っていましたが、なにやらワケありですな」

「そこに岩吉いわきちというお客が出入りしとおいやす。そのお人にこの(ふみ)を手ずからお渡しして欲しいんどす」

つまり、桂は連絡係に仏生寺を指名したのだった。

「ま、それくらいならいいでしょ。あなた方の隠謀術数いんぼうじゅっすうに興味はないが、それで博打バクチが打てるなら安いもんだ」


イライラをつのらせていた入江九一は、仏生寺の不遜ふそんな態度に耐えかねて腰を上げた。

「失礼、用事があるので私はこれで。仏生寺先生、我らの差し伸べた手を振り払ったこと、後悔なさらぬよう」

彼は席を立つと同時に捨て台詞せりふを吐いたが、仏生寺は小馬鹿こばかにしたように笑っただけで、酒を口に含んだ。

その妙に淡麗たんれいな味が、関東人の口には合わなかったのだろう。

彼は顔をしかめて言った。

「…もうしてますよ」


この水と油のような二人、さらには久坂玄瑞からも敬愛される桂小五郎とはいかなる人物なのか。

ただ一つ言えることは、この物語の冒頭に登場した井伊直弼いいなおすけが「幕末」と呼ばれる時代の幕を開けたとするなら、彼こそがその幕を降ろした男であるということだ。

そしてそれは、運命のめぐり合わせなどという不確かなもののせいではない。

現代では坂本龍馬の功績こうせきとしてほとんど定説となっているのちの薩長同盟さえ、一説には彼の持論じろんであったといわれる。

桂小五郎は、間違いなく早い段階からその展望てんぼうを持っていたのだ。


「そろそろお(いとま)します。桂先生にはくれぐれもよろしく」

やがて仏生寺は、入ってきた時と同じく、フラリと出ていった。

「なんともつかみようのないお人どすなあ。桂先生(せんせ)が気にかけはるのも何とのう分かるような…」

久坂とともに玄関まで仏生寺を見送った幾松は、例の理知りち的な眼差まなざしで彼の後ろ姿が闇に消えてゆくのを眺めている。

「あのふみは?」

そう聞いた久坂は、同じ方を向きながら、何かまったく別のものを見つめているようだった。

「…桂先生(せんせ)が言わはるには大切なもんどす。一つは遠大な計画の絵図面えずめんとか」

幾松がほのめかしたそれは、まもなく天誅組てんちゅうぐみを立ち上げようという土佐脱藩浪士吉村寅太郎からの檄文げきぶん(決起を促す手紙)だった。


「いいのですか?あんな胡散うさん臭い男にたくして」

「なんせ物騒ぶっそうな内容どすさかいなあ。ひょっとしたら、危ない仕事になるやもしれません。けど、あのお人なら誰に狙われようが安心どすやろ?なぜといって、あのお人は仏生寺弥助なんやさかい」

「しかし、口が軽そうだ」

「かましまへん。しょせんただの“絵図面”どす。桂先生(せんせ)絵空事えそらごとを信じはらへんお人や。大事なのは、もう一通の方。そっちは桂先生(せんせ)自筆じひつどす。『岩吉』さんにも、吉村から同じものが届くやろけど、うかうかと話に乗るなとくぎを刺しとおいやす」

桂が幾松の口を借りて告げた言葉は、先走さきばしる久坂たちへの牽制けんせいも含んでいた。

桂は、この若き天才が頭に描くどこか現実離れした未来にも危うさを覚えていた。

その意を()んだ幾松は、愛人の危惧きぐが伝わったかをはかるように久坂の顔色をうかがった。

「…それに、久坂先生(せんせ)もお聞きどしたやろ?あのお人は字が読まれへん。これほどの適任てきにんはおへん」


「なるほど」

久坂の口元には冷淡な笑みが張りついていた。

彼の中には燃えるように苛烈かれつな理想主義と、驚くほど精密な思考回路が同居している。

その頭脳が、幕府とそれに対する勢力の全面対決が近いことを知らせていた。

性急せいきゅうな決起をいさめる桂の警告も、久坂には意味を持たなかった。

いや、別の意味を持っていたと言った方がいいだろう。

彼は中川忠光をようする光明寺党の結成を急がねばならないという決意を新たにしていた。


そのとき、仏生寺が帰るのを待っていたように入江九一が姿を現して、二人の視界をさえぎった。

「…確かに奴の強さは桁外けたはずれだ。桂先生は上手く利用する気のようだが、あの力は我々が(もてあそ)ぶには危険すぎるぜ?」

入江は仏生寺が歩いていった方向を振り返り、どちらにともなく言った。

「ではどうする」

久坂がポツリと尋ねた。

「…前時代の遺物いぶつには消えてもらうさ」

行灯あんどんの火に照らされた入江の顔は、ゾッとするような残忍さをたたえている。

しかし久坂は、すでにその話題には飽きたように冷たく言い放った。

「好きにすればよかろう。僕にはどちらでもいい」


五月、江戸から京都に戻った桂は、いよいよ本格的に攘夷活動に身を投じていくことになるが、この長き不在の間、仏生寺の立場は宙に浮いたままだった。

なにしろ彼は桂が個人的に呼び寄せたに等しい。

仏生寺弥助が長州閥ちょうしゅうばつの人間から命を狙われるのは、もはや時間の問題だった。


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