継承者たち 其之参
その合図を待っていたように襖が開き、二人の女中が酒を運んできた。
「では、お酌をお願いしようかな」
仏生寺が女中に盃を差し出したとき、つづいていかにも聡明な面立ちの芸妓が入ってきた。
「まあ先生、下女のお酌で飲むやなんて止めとおくれやす。桂からようよう言われてますのやさかい」
そう言って仏生寺の傍に座ったのが、桂小五郎の愛人、幾松だった。
桂の留守を預かる身として、代わって仏生寺をもてなそうというわけだ。
「これは、美しい」
仏生寺は上機嫌で空の盃を軽く持ちあげた。
女中たちは畏れ多いとでもいうように三つ指をついて退出した。
「そうそう、桂から預かり物があるんどすえ」
酒を注ぎ終えた幾松は、徳利を傍らにおいて、懐から二通の手紙と小さな包みをとり出した。
包みは一目で小判とわかる形をしている。
「ほう。桂先生はわざわざ小遣いをくれるために私を呼んだんですか?」
「このお金はこちらまで足を運んでいただいた迷惑料と思うてください」
幾松はゆっくりと瞬きしてそう言うと、ほんの一瞬、久坂と目配せを交わした。
仏生寺はそれを見逃さなかったが、何事もなかったように伏し目がちで杯を傾けている。
「ずいぶん気前のよろしいことで。ですが、この手紙は?お恥ずかしい話、わたしゃ字が読めなくてね」
幾松はその告白を聞き流すと、話をはぐらかすように、含み笑いをした。
「先生はたいそう賭け事がお好きやて伺いました。このお金は、遊興の軍資金にしとくれやす」
「こんな分厚い寺銭(ここでは賭博の手数料の意味)は、ツボ振りも見たことがないでしょうな」
「桂の心付けどす。ただし、先生。このお金は先生が馴染みの岩倉村にある賭場で使うて欲しいんどす」
「そういやあ、あそこは桂先生に紹介してもらった賭場でしたっけ。生真面目な先生がそんなところをご存知とは不思議に思っていましたが、なにやら訳ありですな」
「そこに岩吉というお客が出入りしとおいやす。そのお人にこの文を手ずからお渡しして欲しいんどす」
つまり、桂は連絡係に仏生寺を指名したのだった。
「ま、それくらいならいいでしょ。あなた方の隠謀術数に興味はないが、それで博打が打てるなら安いもんだ」
イライラを募らせていた入江九一は、仏生寺の不遜な態度に耐えかねて腰を上げた。
「失礼、用事があるので私はこれで。仏生寺先生、我らの差し伸べた手を振り払ったこと、後悔なさらぬよう」
彼は席を立つと同時に捨て台詞を吐いたが、仏生寺は小馬鹿にしたように笑っただけで、酒を口に含んだ。
その妙に淡麗な味が、関東人の口には合わなかったのだろう。
彼は顔をしかめて言った。
「…もうしてますよ」
この水と油のような二人、さらには久坂玄瑞からも敬愛される桂小五郎とはいかなる人物なのか。
ただ一つ言えることは、この物語の冒頭に登場した井伊直弼が「幕末」と呼ばれる時代の幕を開けたとするなら、彼こそがその幕を降ろした男であるということだ。
そしてそれは、運命の巡り合わせなどという不確かなもののせいではない。
現代では坂本龍馬の功績としてほとんど定説となっている後の薩長同盟さえ、一説には彼の持論であったといわれる。
桂小五郎は、間違いなく早い段階からその展望を持っていたのだ。
「そろそろお暇します。桂先生にはくれぐれもよろしく」
やがて仏生寺は、入ってきた時と同じく、フラリと出ていった。
「なんとも掴みようのないお人どすなあ。桂先生が気にかけはるのも何とのう分かるような…」
久坂とともに玄関まで仏生寺を見送った幾松は、例の理知的な眼差しで彼の後ろ姿が闇に消えてゆくのを眺めている。
「あの文は?」
そう聞いた久坂は、同じ方を向きながら、何かまったく別のものを見つめているようだった。
「…桂先生が言わはるには大切なもんどす。一つは遠大な計画の絵図面とか」
幾松が仄めかしたそれは、まもなく天誅組を立ち上げようという土佐脱藩浪士吉村寅太郎からの檄文(決起を促す手紙)だった。
「いいのですか?あんな胡散臭い男に託して」
「なんせ物騒な内容どすさかいなあ。ひょっとしたら、危ない仕事になるやもしれません。けど、あのお人なら誰に狙われようが安心どすやろ?なぜといって、あのお人は仏生寺弥助なんやさかい」
「しかし、口が軽そうだ」
「かましまへん。しょせんただの“絵図面”どす。桂先生は絵空事を信じはらへんお人や。大事なのは、もう一通の方。そっちは桂先生の自筆どす。『岩吉』さんにも、吉村から同じものが届くやろけど、うかうかと話に乗るなと釘を刺しとおいやす」
桂が幾松の口を借りて告げた言葉は、先走る久坂たちへの牽制も含んでいた。
桂は、この若き天才が頭に描くどこか現実離れした未来にも危うさを覚えていた。
その意を汲んだ幾松は、愛人の危惧が伝わったかを推し量るように久坂の顔色を伺った。
「…それに、久坂先生もお聞きどしたやろ?あのお人は字が読まれへん。これほどの適任はおへん」
「なるほど」
久坂の口元には冷淡な笑みが張りついていた。
彼の中には燃えるように苛烈な理想主義と、驚くほど精密な思考回路が同居している。
その頭脳が、幕府とそれに対する勢力の全面対決が近いことを知らせていた。
性急な決起をいさめる桂の警告も、久坂には意味を持たなかった。
いや、別の意味を持っていたと言った方がいいだろう。
彼は中川忠光を擁する光明寺党の結成を急がねばならないという決意を新たにしていた。
そのとき、仏生寺が帰るのを待っていたように入江九一が姿を現して、二人の視界を遮った。
「…確かに奴の強さは桁外れだ。桂先生は上手く利用する気のようだが、あの力は我々が弄ぶには危険すぎるぜ?」
入江は仏生寺が歩いていった方向を振り返り、どちらにともなく言った。
「ではどうする」
久坂がポツリと尋ねた。
「…前時代の遺物には消えてもらうさ」
行灯の火に照らされた入江の顔は、ゾッとするような残忍さをたたえている。
しかし久坂は、すでにその話題には飽きたように冷たく言い放った。
「好きにすればよかろう。僕にはどちらでもいい」
五月、江戸から京都に戻った桂は、いよいよ本格的に攘夷活動に身を投じていくことになるが、この長き不在の間、仏生寺の立場は宙に浮いたままだった。
なにしろ彼は桂が個人的に呼び寄せたに等しい。
仏生寺弥助が長州閥の人間から命を狙われるのは、もはや時間の問題だった。




