アベシンゾウの冒険 其之参
「でもまあ、桂が戻って来るまでここで待たせてくれと頼んでみたんだ。インチキ攘夷志士と距離をおくには都合がいいしな」
「よく潜り込めたな」
琴は自分を追い返した感じの悪い女将を思い浮かべながら、疑わしげに尋ねた。
「店に出入りする攘夷志士とかいう連中からは散々疑われたがね。以前、長州と組んで仕事をしたと言ったろ?その話をチラつかせたら、あっさり信用された」
そして結局、六角源氏太夫に差し向けられたことなどすっかり忘れて、吉田屋で用心棒、兼、下働きの職に落ち着いたのである。
つまり、本来ならこの料理屋から琴のような者を遠ざけるために雇われていたはずだが、物事の善悪を自分の物差しでしか測れない彼には不向きな仕事だった。
たまたま善玉に分類されていた琴にとっては、これが幸いしたというわけである。
さて、ここで少し回想シーンを差し挟もう。
この日の夕刻。
阿部慎蔵は、吉田屋の中庭で見覚えのある人物に出くわした。
都の北、岩倉村にあるいかがわしい賭場で呼び込みをやっていた男だ。
小柄だがガッシリしていて、頬にある大きな傷は見間違いようがなかった。
阿部は以前、男に誘われたその洛北の賭場で、文字通り尻の毛まで抜かれる目に会わされていた。
「てめえ!ここで会ったが百年目だ!てめえは覚えてねえだろうが、俺はそのツラを一生忘れねえぞ!」
なぜそんな男が吉田屋にいるのかと不思議に思うより先に、阿部は踊りかかっていた。
しかし意外なことに、胸ぐらをつかまれたその男はいきなり笑い出した。
「アハハ、わしかて覚えとるで。一回会った人間の顔は忘れへん」
「そりゃ好都合だ。ぶん殴るのに理由を説明する手間が省けたぜ!」
阿部が拳を振り上げると、男はその二の腕をすばやく鷲づかみにした。
小柄な体格に似ず、恐ろしいほどの握力で、阿部は身動ぎもできない。
「…いやあの時はホンマすまんかったなあ。けど実のとこ、ワシはあの賭場の人間やないねん。堪忍やで」
「このやろ、それで済むと思ってんのか?」
小男は、凄む阿部をシゲシゲと眺めて、なぜか急に声を落とした。
「…実はあの賭場は攘夷派の資金源になっとるちゅう噂があってな?」
あまりに唐突な話に、阿部は二の句が継げない。
「わしは、さる筋から内偵を頼まれて、潜り込んどったんや」
「み、見え透いた出まかせを!」
「ま、そう思うのも無理はないけど、ホンマなんや。信用を得るためにどうしても上客が欲しゅうてなあ。あんた、羽振りが良さそうやったさかい、つい、な?」
頬傷の小男は悪びれる様子もなく、またニコリと微笑んだ。
その笑顔には、妙な人懐こさがある。
だが、もちろんそれしきのことで阿部の怒りが納まるわけもなかった。
「おかげで、このざまだ!」
「悪銭身につかずや。今の方がええ顔しとるで?」
「抜け抜けと言ってくれるな!内偵だと?それが本当だとして、なぜ見ず知らずの俺にそんなことを打ち明ける?」
「もちろん、普段やったらこんなこと易々とは喋らんがな。せやけど、今はちょっと切羽詰まった状況に追い込まれとってな。わしは顔を忘れんだけやのうて、人を見る目もあるんや。あんたを男と見込んで相談がある」
「相談?俺に?いったいどこまで厚かましいんだか…おまえ、そもそも何者なんだ?」
単純な阿部は、すでに男の話術に引き込まれ、この話をなかば信じかけていた。
「教えたってもええけど、条件がある。ちょい助けてくれるか?」
男が言い終わらないうちに、屋敷の方からバタバタと人の走ってくる音が聞こえた。
どうやら追われる身らしい。
「クソったれ!」
阿部は男に対する恨み辛みと、この興味をそそられる状況の板ばさみになって、おもわず毒づいた。
頬傷の男は、それを承諾と受け取ったらしい。
「わしゃ、会津屋敷の中間頭で、仙吉ちゅうもんや」
名乗り終えると、庭に面した座敷の一室に、すっと身を滑り込ませた。
今にも消え入りそうな男に、阿部は思わず手を伸ばした。
「会津?あんた、京都守護職の関係者か?」
「ま、そういうこっちゃ。ほなな!」
仙吉は、そう言って音もなく襖を閉じた。
そこへ間髪入れず数人の長州藩士たちが駆けつけた。
まさに危機一髪だ。
「おい、そこの下男。ここに傷のある男を見かけなかったか?」
自分の頬を指の先でなぞりながら尋ねたのは、村塾四天王のひとり入江九一だった。
その顔を見て、阿部はギョッとした。
それは、高瀬川の小橋で抜き身を構えて向き合った長州藩士だったからだ。
だが阿部には、この窮地を救えるのは自分だけだという奇妙な使命感が芽生えはじめている。
慌てて頬被りしていた手拭いの先を引き下げて顔を隠すと、廊下の先を指差して答えた。
「へえ、そいつなら厠の方へ走って行きましたよ」
入江は阿部の顔など覚えていないらしく、
「そうか!」
頷くや、配下を引き連れ厠の方へ走り去って行った。
そして、仙吉と名乗るそのスパイが、まんまと脱出した裏口に、中沢琴が居合わせたというわけだ。
以上が、阿部慎蔵が琴と再会するまでの顛末である。
得体の知れぬスパイを単なる義侠心から逃がしてやったのは、なんともこの男らしいと言えなくもないが、ともあれ、そうした直情的な行動が二人をまた引き合わせたのだった。
「…まったくおかしな日だぜ、今日は」
阿部は早足で先をゆく琴の背中にそう言って、話を締めくくった。
「洗いざらい話して気が済んだか?あなたの人生がなかなか刺激的だということは分かったが、それと私になんの関係がある?」
琴はため息を一つついてから、無愛想に尋ねた。
「ご挨拶だな。いつぞやの恩返しをしてやろうと、わざわざ名乗り出てやったのによ」
「余計な世話だ」
「…あんた、吉田屋に入りたいんだろ?」
阿部が意味ありげに声音を落とすと、琴は歩みを止め、眦をあげて振り返った。
「そう怖い目で睨みなさんな。だってよ、入り口んとこで追い払われてるのを見かけたぜ?」
「ちっ」
琴はきまりが悪そうに舌打ちした。
「前回の分も含め、て貸し借りなしだ。ここでまた借りを作る気はない」
そう言ったものの、琴の顔にはありありと逡巡の色が浮かんでいる。
脈ありと見るや、阿部は取引きの条件を提示した。
「なあいいか、じゃあこうしようぜ?俺の口利きで、あんたが上手く潜り込めたら、その後で、俺と大坂に来てくれ」
「なんだそれは?」
「理由は聴かねえが、あんたも長州を探るのが目的なんだろ?」
「聴いてるじゃないか」
「そうじゃなくて、とにかく中に入れればいいんだろって話さ」
琴は胡乱げに阿部を見つめた。
「…なにか策でもあるのか?」
「女中部屋に着物がある。あんた、女みてえな顔してるから、女装して潜り込むってのはどうだい?」
琴は、もう苦笑いするしかなかった。
「…まったく、どうしてこうなるんだ」
その頃、木刀で強かに脛を打たれた長州藩士たちは、ようやく動けるようになると、気を失っている杉山に駆けよった。
「杉山さん!杉山さん!」
揺さぶられた杉山は、うめきながら目を覚ました。
「…クソ!あの浪人め!」
軽く頭を振ってなんとか半身を起こした杉山は、仲間たちを見上げて怒鳴り散らした。
「おまえら、何をボーッとしてる!?さっさと奴らを追え!」
長州の若き志士たちは、弾かれたように方々へ散っていった。
しかし、灯台下暗しとはこのことだった。
そのとき、すでに中沢琴は阿部の手引きで吉田屋に潜入していたのである。




