島原大門 其之参
斎藤は低く身体を沈め、地を蹴った。
一直線に伸びる太刀筋が、
ハヤブサのように仏生寺を襲う。
しかし、
仏生寺は刀身を斎藤の剣先に軽く触れただけで軌道をそらし、
いとも簡単にその突きを交わした。
斎藤が驚く間もなく、
仏生寺の上段蹴りが跳ね上がる。
斎藤は、意表をつくその動きに、なんとか仰け反って対応した。
その蹴りは、斎藤の袖を切り裂いた。
刃物に匹敵する鋭さだ。
斎藤は信じられないという顔で仏生寺を凝視する。
仏生寺は、例のしまりのない笑顔で小首を傾げてみせた。
「ハハア、左の突きなんて、ずいぶんクセのある剣を使うなあ」
「交わしたのは、おまえが最初だ」
「私の蹴りを交わしたのは、あんたで二人目だよ。もっとも"彼女"は服にもかすらせなかったがね」
「…誰だそれは」
驚いた斎藤一も、当の仏生寺弥助も、まさか最初にその蹴りを交わした中沢琴がすぐそばに居るとは思ってもいなかった。
一方、二人の後を追おうとしたその中沢琴も、今度は逆に引き止められる立場に追い込まれていた。
「おまえ、ひょっとしてわざと奴らを逃がそうとしたのか?」
あまりに都合よく現れた琴に、浪士組の面々も疑いの目を向ける。
「仕事の邪魔をするのは気が引けるが、今日のところは大人しく引っ込んでいてもらおう」
琴はあっさりとそれを認めてしまった。
「こいつ、仲間だぞ!」
「やはり、長人(長州藩士)だな!」
亀井と細川が口々に叫ぶのを聞きながら、琴はゆっくりと刀の柄に手をかけた。
「勘違いしないでほしい。公方様(将軍徳川家茂)のために働く者に危害を加える気はない」
佐伯又三郎は、猫背をさらに丸めて顔をつき出すと、目をすがめた。
「…いったい、何なんや?おまえは」
鼻の効く佐伯は、それとなく琴の実力を察していた。
しかし、実戦経験の乏しい新人にそんな勘は望むべくもない。
「そんな戯言を信じると思うか!」
家木が先頭を切って琴に踊りかかると、
左右から亀井と細川がそれに続いた。
「ま、待たんかい、おまえら!」
佐伯が止めたが、時すでに遅し、
家木たちは信じられないような光景を目の当たりにしていた。
その“得体の知れない浪人”が、はるか頭上を一回転しながら飛び越えて行く。
彼らはあっというまに背後を取られていた。
琴が二尺八寸の長刀を横薙ぎに一閃すると、
ヒュンと風を切る音がして、
三人の羽織は、綺麗な真一文字に裂かれた。
「うわっ!」
誰かの口からおもわず悲鳴が漏れる。
「大げさな。斬ったのは布切れ一枚だ」
呆気にとられて立ちすくむ四人を尻目に、琴は悠々と島原の大門を出ていった。
揚屋町方面に曲がった二人を敢えて追わなかったのは、いかに浪士組の腕利き(斎藤)といえど、仏生寺弥助を仕留めることなど出来ないと確信していたからだ。
琴は、まっすぐ祇園へ向かって、吉田屋で仏生寺を待ち伏せる道を選んだ。
追い詰められていた三戸谷一馬ら仏生寺の手下たちも、いまがチャンスとばかり方々へ散っていく。
同じころ、仏生寺弥助と睨み合っていた斎藤一は、背後に仲間の悲鳴を聴いていた。
ふと集中が切れた隙に、仏生寺は路地に逃げ込み視界から消えてしまった。
「くそ!」
斎藤は仏生寺を追うこともできたが、島原大門の騒ぎを放っておくわけにもいかず、舌打ちしていま来た道を引き返した。
戻ってみると、先ほどの不逞浪士たちはみな姿を消しており、佐伯又三郎らが気の抜けたように突っ立っている。
「何があった?」
佐伯は、無言で膝をつく隊士たちの背中を指さした。
斎藤は家木らの羽織が切り裂かれているのに気づいて眉をひそめた。
「後ろを向いて並んでみろ」
同じ高さで横一線に着物が裂かれている。
しかも中の小袖には傷ひとつ付いていなかった。
「…ずいぶん好き放題にやられたな」
「こ、これはつまり…」
家木はなんとか弁解を試みようとしたが、これだけハッキリした物証があっては言い逃れようもない。
「解ってる。こんなふざけた真似が出来る奴に、並の剣士が敵うはずもない。これで古着でも買え」
斎藤は三人に銅銭を投げてよこした。
「え?」
「そのまま屯所に帰れば、敵に背を向けたと勘繰られるぞ。まだ腹を切りたくはあるまい?」
彼らを金で抱き込もうとしていた佐伯は、先を越されて渋い顔をしながら尋ねた。
「そっちの首尾は?」
「すまん、逃げられた。俺の突きを涼しい顔でいなされたよ」
薄い唇に触れながら、斎藤は苦い経験を思い返した。
「わしは稽古で何回か見とるけど、あの突きを交わせる人間がおるとは、ちょっと信じられん話やな」
斎藤一は間違いなく在京でも最強の剣士の一人で、しかも彼の左突きは必殺と言っても過言ではない。
「あいつら、何者や…」
しかし斎藤は、落ち込むでもなく、薄い笑みすら浮かべている。
「浪士組に誘ってくれたお前に感謝せねばな」
佐伯は面白くもなさそうに片方の眉を吊りあげた。
「そりゃ皮肉のつもりかい?」
「俺は少々自惚れていたようだ…世間は広いということさ」
中沢琴と仏生寺弥助。
図らずも希代の天才たちに遭遇した斎藤の眼は、妙に生き生きとしていた。




