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幕末カタナ・ガール  作者: 子父澤 緊
葬送之章
119/404

Solitude Standing Pt.2

同じころ。

伏見、薩摩藩邸付近。

朝早くから市中に出かけていた中沢琴は、寺田屋への帰途きと、以前中村半次郎と入った料理屋のまえで立ち止まった。

なにか用事があったわけではない。

あの日あったことを思い返していたのだ。


殿内が死んで、土佐の過激派につながる糸が途切れてしまった今、「伏見義挙ふしみぎきょ」の資金を追う捜査はふりだしに戻ってしまった。

琴がつぎに目をつけたのが長州と薩摩である。

さいわい、寺田屋に泊まっていれば、この二つの雄藩ゆうはんの情報は断片的ながら知ることができた。

つまり、この付近で琴を探していた山南の読みは正しかったことになる。


ただ、薩摩藩があの資金のことに気がついていたとすれば、島津久光みずから鎮圧ちんあつを命じた寺田屋事件の直後には、すでにそれを差し押さえているはずだし、今さら琴や清河八郎がどうあがいたところで手が届くとも思えなかった。


そんなわけで、消去法を用いた琴は長州藩の動きを探ることにしたのだ。


藩をあげて攘夷をかかげる長州藩のなかにも、さらに急進的きゅうしんてきな勢力が台頭たいとうしてきている。

たとえば、このころ京都藩邸の御用掛ごようかかりとなった久坂玄瑞らはすでに不穏ふおんな動きを見せはじめていた。

久坂玄瑞くさかげんずいは、さきに登場した入江九一いりえくいちとならび「松下村塾しょうかそんじゅく四天王」のひとりに数えられる俊才しゅんさいだ。

吉村寅太郎とも旧知の久坂は、寺田屋事件当時上京しており、伏見義挙の計画を知らなかったはずはない。

もちろん、彼にも巨額の活動資金はだまって見過ごすには惜しいお宝だろう。


とはいえ、琴が直接知るかぎりにおいて、長州とつながっていそうな手がかりといえば“不敗の上段"こと仏生寺弥助ぶっしょうじやすけくらいのものである。

寺田屋事件とは縁が遠そうだが、彼をマークしていれば、遠からず過激派と接触できるだろうと琴は踏んでいた。


仏生寺は清河暗殺に失敗したあとも、まだ都に居座いすわっているようだ。

そもそも彼は、長州の右筆ゆうひつ(事務官僚)桂小五郎に呼ばれて、きたるべき五月十日の攘夷決行にそなえ、はるばる京まで上って来たはずであった。

しかし、いつまで経っても下関に向かう様子はなく、長州の名をかたり市中で押し借りを繰り返しているらしい。


仏生寺の評判はすこぶる悪かった。


体面を汚された長州藩の攘夷派が、彼をいつまでも野放しにしておくとは思えない。


この日、仏生寺が頻繁に出入りしている賭場とば洛北らくほくにあるという情報を得た琴は、町娘の姿のまま半丁博打はんちょうばくちに顔を出すわけにもいかず、いったん宿に戻ることにした。


そして寺田屋へ帰る道すがら、仏生寺弥助をはじめて見たこの料理屋のまえを通りかかったのだ。

そのとき、ふとあの日の情景とともに、一緒にいた中村半次郎の言葉が脳裏のうりによみがえった。


「あいつらはロクな死に方をしませんよ」


その不吉な予言が琴の足を止めさせた。

琴は仏生寺の何を知るわけでもない。

ただ、孤高ここうの天才 仏生寺弥助は、いまや琴にとって同じ次元で剣を交えることが出来るただひとりの相手だった。

彼が死ねば、また自分はこの灰色の世界に独りとり残されることになるのだと、琴はそのとき初めて気がついた。


立ち尽くす琴の足元に、腹を空かせた野良のらの子猫がすり寄ってきた。

店から漂う食べ物のにおいにつられてきたのだろう。

親とはぐれたのか、か細い声でなく子猫を、琴はじっとみつめた。

放っておけばこの小さな命は、まもなく尽きるにちがいない。


仏生寺はもとより、自分も、山南も、こんな風にして誰にも知られることなく、非業ひごう最期さいごを遂げるのかもしれない。


この陰鬱な都で。


琴は「いったいこんなところで自分は何をしているのだろう」と考えずにはいられなかった。

「それが故郷の家族よりも大事な仕事なのか」という山南敬介の問いが胸に突き刺さっている。


琴は真っ黒なその子猫をおもわず抱き上げた。



そして、

時刻は暮れの六つ(5:00pm)になろうとしている。


おなじく伏見にある船宿、寺田屋。


この季節にはめずらしいし暑さに、女将おかみ登勢とせは打ち水を思い立った。

表へ出てみると、いつも帰りのおそい女性客が、その日に限ってまだ日も落ちきらないうちから店先につっ立っている。

しかも娘の腕にはなぜか黒い子猫が抱かれていた。

たったそれだけのことが、登勢とせを柄にもなくあわてさせた。


問題は、「富」と名のるその女性客が、江戸からきた攘夷活動家、安積吾郎あさかごろうの恋人だということだった。

もちろん、その「富」とは、正体をいつわる中沢琴の仮の姿であり、実のところ安積吾郎とは何の関係もない。

だが、登勢とせがそんなことを知る由もない。

それどころか、最近では毎日暗くなってから宿に戻ってくるこの富自身も、なにか危険な活動にかかわっているのではないかと登勢とせは疑っていた。


しかし登勢とせはこうした政治犯たちをかくまうことを、いや、日本の将来をうれう若者たちの命を守ることを信条しんじょうとしている。

彼女が思うに、この若い娘にも危険が迫っていた。

今朝方、怪しい男(山南敬介のこと)が彼女の身辺しんぺんを探っていたからだ。



「いとはん!」

登勢とせの声に琴は顔をあげ、どこか悲しげな微笑をみせた。

「女将さん、この子になにか食べさせてあげていい?」

胸に抱いた子猫を勝手になかへ連れこんでいいのか迷っていたようだ。


「なにをのん気な。早よ、お入りやす!はよ!」

登勢とせは琴の背中を突き飛ばすようにして、宿の入り口に押し込んだ。

「なに?なんですか?」

琴は登勢とせのただならぬ様子に戸惑っている。

わけも分からぬまま奥へ奥へと押しやられ、気がつけば普段見ることのなかった台所に立っていた。

周りでは下働きの女たちが夕食の皿をいそがしく片付けて、その日一日の仕事を終えようとしている。


「いとはんは、今日もそとでご飯済ませてきはったん?」

登勢とせはここまで来れば大丈夫とでもいうように落ち着きをとりもどして、かまどの火にかかったままの大きな鍋をのぞき込みながらたずねた。

だが琴の方は先ほどからの登勢とせの様子が気になっている。

「ええ。それより…」

「ちょっとまっててなあ」

登勢とせはその言葉をさえぎって、琴が抱いていた子猫の頭をちょんとつついた。

それから、底の深い皿に魚のアラをよそって土間どまのすみに置いた。

「ありがとうございます」

琴が皿のまえに子猫をそっとおろすと、登勢とせはそのとなりにしゃがんで耳打ちした。

「…いとはんのことぎまわっとる犬がおるみたいえ」

とたんに琴は緊張した顔になって立ち上がった。

「どんな人だか分かりますか」


「どんなて、中肉中背の若い男やし」

登勢とせは眉をよせて男の人相を思い浮かべたが、それをどう表現していいか分からなかった。

それだけでは琴も困った顔でうなずくしかない。


「そうそう。一見優しそうな、ええ男やて。ま、そう言うたんはあの半次郎はんやさかい、アテにならしまへんけどなあ。あのひと、男の顔なんか興味ないさかい」

登勢とせは頬に手をやって小首をかしげたが、琴はそれを聞いて急に口元をほころばせた。


その冗談が可笑おかしかったのか、それとも思い当たる知り合いでもあるのか、登勢とせにはどちらとも判断がつきかねたが。



ひざを折った琴は、美味しそうに遅い夕飯をとる子猫の頭をなでて、また少しうれしそうに目を細めた。


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