都忘れの花 其之肆
さて一刻ほどのち。
伏見の町をひとりで歩く山南敬介の姿があった。
この日、山南は、菊屋書店で仕入れた情報をたよりに攘夷派の集まりそうな場所をしらみつぶしに探索するつもりでいた。
船着場で近藤らを見送ったあと、たしかこの辺りには薩摩や長州の藩邸があったはずだと思いあたった山南は、まずここから始めることにしたのだ。
伏見の船着場界隈は、京への入口だけあって雑多な地方の言葉であふれている。
なかでも、身奇麗な長州藩士たちが目をひいた。
いったい、この京だけで何人の長州人がいるのだろうと山南は憂鬱にさせられた。
しかし頭を振り、せめて今日一日は中沢琴の件だけに集中しようと思い直すと、めぼしい船宿を順番に回ることにした。
やがて山南はそれとは知らず中沢琴の定宿「寺田屋」の前に立っていた。
「いったい、何軒あるんだ」
旅籠の入り口を覗き込みながら途方にくれていると、中から派手な紫紺の羽二重を着た男がふらりと出てきた。
二本差しだが二枚目の遊び人風で、物騒な浪士や長州藩士たちとは明らかに雰囲気を異にしている。
山南は思い切ってその男に声をかけてみることにした。
「すみません。ここに泊まっている方ですか?」
「あ、いや。私は故郷から来た知人に会いにきただけですが」
すこし面食らった顔で答えた羽二重の男は、青蓮院宮衛士一の使い手、薩摩の中村半次郎だった。
中村はここ数日、誠忠組と呼ばれる薩摩藩内の過激派が立ち寄りそうな場所を見廻っていた。
「青蓮院宮の令旨」の件で土佐の間崎哲馬らが弾劾されたことに、彼らが過剰に反応することを懸念していたのだ。
「そうですか、すみません」
がっかりした様子で山南が応えると、中村は例の人好きのする笑顔で、
「どなたか、人を探しておいでですか?」
と逆にたずねてきた。
山南は男の勘の良さに少し警戒したが、その柔らかい物腰につられて、つい話しを続けてしまった。
「ええ。ここに若い女性客が泊まっているのを見ていませんか」
「なんという方です?」
「いや…」
琴がおそらく宿帳に本名を記していないことは、山南にも容易に想像がついた。
答えに詰まっていると、「羽二重の男」は何やら訳知り顔で、
「悪いことは言いませんから、早く彼女をこんなところから連れ出しておあげなさい」
と忠告めいたことを言う。
山南はハッとして男につめよった。
「彼女を知ってるのですか?!あなたはいったい…」
「いや、あなたが『いい人』を探しているなら、こんなところに彼女を置いておくのはよろしくないという意味です。私ならそんなことはさせない。知っていますか。ここでは大勢が死んだ…」
中村半次郎は二階のそで看板を見て寂しげにつぶやいた。
つられて看板を見上げた山南はそのとき初めて船宿の名に聞き覚えがあるのに気がついた。
「…寺田屋。ここが“あの”寺田屋か」
振り返ったとき、中村はすでに蓬莱橋の方へ歩きだしていた。
「あんな美しい恋人がありながら放ったらかしにしておくなど、よほどの自信家だな、あなたは。早くしないと私がとってしまいますよ?」
背中越しにそう言い残し、中村半次郎は辻を曲っていった。
「!」
やはりあの男は中沢琴を知っている。
あとを追おうとして、山南はふと考え直した。
「…あの男、薩摩か」
寺田屋を見るときの悲しみを湛えた瞳がそう語っていた。
ならば、彼は当面の敵ではない。
それより男の言葉が本当なら、つまり中沢琴はここに泊まっているということだ。
今は琴と話をすることの方が先決だった。
ただ、国事に関心をもつ人間のあいだで攘夷過激派の巣窟「寺田屋」の名を知らぬ者はない。
ここがそうなら、浪士組の人間である自分に正面突破は難しそうだ。
山南はそう考え、客を装って中を覗うことにした。
一方、中村半次郎は竹田街道まで出たところで、なにかの買い物帰りらしい寺田屋の女将登勢とばったり出くわした。
「あれ、中村はん。うちで晩御飯食べていかはらへんのどすか?ほれ、今日はかぶら蒸しにしよう思て」
登勢が軽くもちあげてみせた包みからは、京こかぶの葉がのぞいている。
「それは残念だが、今日はほかにも寄るところがあってね。それより女将、あの娘にも、いよいよ待ち人来たるかもしれんよ」
中村は微笑みながら見知らぬ訪問者の件をほのめかした。
とはいえ、女性客などひとりしかいない。
登勢はすぐに富(琴の偽名)のことを言ってるのだと気がついた。
「あのいとはんに、どなたか訪ねてきはったんどすか」
「ああ。宿の前でウロウロしていたよ。沙汰もなしに長らく放っておいたので、きまりが悪いのかもしれん」
多くの志士たちをかくまってきた登勢の勘が、なにか違和感のようなものを感じ取った。
「どんなお人どした」
「さあ、どうと言われても…。一見優しそうだが、凛としたいい男だったよ」
とたんに登勢は険しい表情になって中村をにらんだ。
「中村はん!あんた、よけいなこと言いまへんどしたやろなあ!」
「あ、ああ。けどあの人がそうかもしれないだろ?」
登勢は、富の恋人が清河の盟友安積吾郎だという話を信じている。
中村の遭遇した相手が、本当に安積だったとしたら、その特徴的な風貌、つまり隻眼について触れないはずがない。
「その男、少なくとも、あのいとはんの待ち人やないことは確かどす」
登勢はそう叫んで、慌てた様子で宿の方へ走っていった。




