都忘れの花 其之壱
三月下旬、
禁裏の南、智積院で攘夷派に睨みをきかせていた土佐の前藩主、山内容堂が京を離れた。
国許に帰った容堂は、土佐勤王党に乗っ取られたも同然の藩政を立て直すべく、さっそく策をめぐらせた。
手始めとばかりに京で攘夷活動をしていた間崎哲馬と平井収二郎を強制送還させ、のちに見せしめのため切腹させたのは、その一例である。
もっとも、間崎らは、さる文久二年十二月、青蓮院宮(中川宮)から前々藩主山内豊資あての令旨を独断で引き出したとして、以前から問責されていた。
土佐藩を攘夷路線へと転換させるため、青蓮院宮に口ぞえを頼んだのである。
(ちなみに、浪士組の結成を後押しするよう山内容堂にたのんだのも、この間崎だった)
寺田屋騒動のきっかけとなった「青蓮院宮の令旨」を思い出させる出来事だが、ツラの皮の厚い清河が、ありもしない令旨をでっち上げたのに対し、間崎・平井らは正攻法で本物を手に入れたのである。
だが、この令旨は藩を動かすどころか、結果として、間崎たちの命取りになってしまったわけだ。
しかし、ややこしいのは、八木源之丞や中村半次郎が仕えている青蓮院宮なる公卿は、いわば「公武合体派の旗頭」ともいえる存在だということである。
つまり、おなじ公家でも尊王攘夷派の三条実美や姉小路公知とは、真っ向から対立する勢力のリーダーなのだ。
それが土佐勤王党の人間に、攘夷を助長する令旨を下したということは、彼自身も外国勢を打ち払うことに否定的ではなかったということを意味している。
結局、文久三年四月というこの時点(五月十日が幕府と朝廷が合意した攘夷決行の期限)の京において、激しい対立の論点は、「だれが」「どのようにして」夷敵(外国)を打ち払うのかということだった。
ただ、遠く江戸にいる幕府閣僚たちだけが、もはや開国の流れを止められないと諦観していた。
そしておそらくその展望は正しかった。
問題なのは、開国派の一橋慶喜など一握りの優秀な人間をのぞけば、彼らはあまりに無策で、しかも無気力だったということに尽きるだろう。
ひとむかし前であれば、各地の絶対権力者であった藩主(容堂は正確には前藩主だが)たちでさえ、もはやこの激しい潮流に抗うことは難しくなってきている。
そして浪士組最大の不幸は、「幕府」という泥舟に乗ってしまったことだった。
四月。
壬生村の浪士組では、何もかもが忙しく動き始めていた。
まず、八木家の向かいにある前川荘司の邸宅を借り上げる案件は、井上源三郎のねばり強い交渉もむなしく、永らく暗礁に乗り上げたままだったが、芹沢鴨の脅しひとつで解決してしまった。
いきさつはどうあれ、前川邸の広々とした居室を確保出来たことで、隊士たちは息のつまるような過密環境から開放された。
もっともこの場合は、借り受けたと言うより、乗っ取ったと表現したほうが正確かもしれない。
前川家は人相の悪い浪士たちに恐れをなして一家総ぐるみで親戚の家へ避難してしまったからだ。
ともあれ、近藤、山南、土方ら幹部は、これでようやく個室を持つことが出来た。
もうひとつ進展があったのは、手狭になってきた稽古場の問題である。
浪士たちにとっては、念願の道場が、八木家の庭に建てられることになった。
屋敷の主人、八木源之丞は、もうどうとでもしてくれと投げやりに構えていたが、長男の秀二郎は、この件に、いたく不満の様子である。
なにしろ、以前、自分が井上源三郎にうっかり口をすべらせた冗談が、勝手にひとり歩きを始めて、いまや現実のものになりつつあるのだ。
秀二郎は、だれに相談することもできず悶々と日々を過ごしている。
ともかく、そんなわけで、洛北ではそろそろ都忘れの花が咲こうかというころ、浪士たちは、どっしりと都に根をおろしてしまった。
さて、そんな中。
浪士組の副長 山南敬介は、全てが性急にすぎる気がして、隊のゆくすえに一抹の不安を感じていた。
しかし、彼にとって、このところ一番の気がかりは、もと恋人中沢琴の行方である。
山南は、職務に忠実であろうとするあまり、忙しさを言い訳に、ずっと琴の件を後回しにしてきたことを、今さらながら悔やんでいた。
組織が派閥闘争に明け暮れるさなか、せめて自分だけは市中の不穏分子に目を光らせておかねばならないと、情報収集に駆けまわっていたため、状況が私事にかまけることを許さなかったのだ。
しかし、中沢琴本人から聞かされた話で、きれいごとばかりも言っていられなくなった。
目的は分からないが、琴が近づこうとしている吉村寅太郎は、どう考えても危険すぎた。
吉村を産んだ土佐藩は、ここのところ雄藩による武力攘夷か、幕府主導の公武合体かの狭間で揺れている。
国内でもトップクラスの攘夷過激派である彼が、動きを活発化させるのは目に見えていた。
しかも皮肉なことに山南がかき集めた情報は、吉村が、目的のためなら人の命を奪うことも躊躇わないことを裏付けていた。
そして、山内容堂が京を去った今、吉村寅太郎を縛るものは何もないのだ。
山南は、そうなってみて初めて、これまで自らを律するフリをして、現実から目を逸らしていたことに気づかされた。
結局、くだらない内輪揉めを演じている自分への後ろめたさから逃れたかっただけなのだ。
親友の中沢良之助には、姉を無事に故郷へ帰すと約束したし、何より彼自身が琴の身を案じているというのに。
殿内義雄の件がひと段落した以上、一刻も早く彼女を見つけだし、無茶をやめさせなければならない。
ただ、もどかしいことに、彼女が清河八郎の仕事で動いているせいで、おおっぴらに探すことが出来なかった。
それが隊内に知れれば、琴の立場をよけいに危うくしてしまう恐れがある。
へたをすれば浪士組自身が、琴に危害をくわえるかもしれないのだ。
そうして日々、歯がゆい思いをするなか、チャンスは突然めぐってきた。
局長三人がそろって大坂に出かけることになったのだ。
しかも、土方歳三、永倉新八、沖田総司、野口建司が、局長三人のお供である。
旅の目的は、慢性的な資金難を解決すべく、「天下の台所」大阪まで出向いて、商家に借金を申し入れようというものだ。
まあ平たくいえば、帝と将軍がおわす京でひんぱんに押し借りを働くのも体裁が悪いので、すこし離れた場所で荒稼ぎしようというわけである。
とても褒められた話ではないが、とはいえ、隊の財政状態が深刻なのは、まぎれもない事実だった。
「会津お預かり」を名乗り、やみくもに隊士を募ってみても、その事実が彼らの足元の脆さを物語っている。
山南の奮闘も空しく、おそらく浪士組は、幕府からも会津からもほとんど忘れられているのだった。




